播磨国常楽寺時代略歴
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確実な時期は不明であるものの、文観房弘真は乾元2年(1303年)から嘉元4年(1306年)ごろに故郷の播磨国(兵庫県)に戻り、20代後半の若手僧ながら播磨国の真言律宗の指導者格になった。これには、1. 本拠地である西大寺で若手筆頭の有望株として名声を築いていたこと、2. 実家である豪族の大野氏からの金銭的支援があったこと、3. 文観の最初の師である観性房慶尊は播磨国の真言律僧の筆頭であり、文観は急逝した慶尊に代わってその地位を継いだこと、4. 播磨国の勧進僧(寺院や交通設備の修善事業などを行う僧)である宇都宮長老からも実力を認められ、その勢力基盤を引き継いだこと、などの理由が挙げられる。 文観は故郷の播磨国で、律僧として土木事業を通じた民衆救済に尽力した。さらに、文観はそれと並行して様々な事業を手掛け、以下のように、多芸多才な僧侶としての片鱗を見せ始めていた。 律僧としての一面:文観の生涯の根幹は民衆救済を志す律僧であり、以下のような土木事業を手掛けた。蛸草郷の耕地開発。文観は、当時は耕地だった加古川市の神野町や日岡神社の周辺地域(中世に蛸草北村と呼ばれた地域)から開拓事業を始め、曇川に沿って南東方向(近世に蛸草郷と呼ばれた地域)へ開墾を進めていった。この開拓事業は文観の入滅後も文観の後継者たちによって続けられたと見られ、14世紀末には天満大池の整備という一大事業が完遂された。 特筆すべきは、東播磨の加古川水系の五ヶ井用水の修築事業である。東播磨は干魃がよく起こる地帯のため、古来より用水施設が発達してきた。中世には、五ヶ井用水に対し何者かによって受益面積200ヘクタールから700 ヘクタールへの修築・増設事業が行われ、地域の富を生み出す基幹部として、数百年以上に渡る公益をもたらした。日本史研究者の金子哲は、当時の史料や各豪族・寺社の勢力版図を調査し、この事業は文観が開始したものであると結論している。 政僧としての一面:東播磨正和石塔群(後述)を造営し、これらを大覚寺統(後醍醐天皇の皇統)に奉献することで、後宇多上皇や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)といった時の最高権力者の知遇や支援も得た。 学僧としての一面:文観は正和3年(1314年)9月21日、数え37歳の時に『西玉抄』という書を著して、師の信空から称賛されるなど、真言僧として仏教学への関心も深めていった。 画僧としての一面:西大寺では自分で絵筆を握る絵師としての活躍だったが、播磨国では、美術監督として「東播磨正和石塔群」という仏教美術作品の造営を監修した。金子哲の評価によれば、これらは「第一線級の大型最上質の石塔」である高い芸術的価値を持つ石塔群であり、伊行恒や念心といった名工もしくはその関係者を招いて作られたのではないか、という。2019年時点で発見されている4基すべてが兵庫県指定文化財に指定されている。
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