播磨国常楽寺時代略歴とは? わかりやすく解説

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播磨国常楽寺時代略歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「播磨国常楽寺時代略歴」の解説

確実な時期不明であるものの、文観弘真乾元2年1303年)から嘉元4年1306年)ごろに故郷播磨国兵庫県)に戻り20代後半若手僧ながら播磨国真言律宗指導者になった。これには、1. 本拠地である西大寺若手筆頭有望株として名声築いていたこと、2. 実家である豪族大野氏からの金銭的支援があったこと、3. 文観最初の師である観性房慶尊は播磨国真言律僧筆頭であり、文観急逝した慶尊に代わってその地位継いだこと、4. 播磨国勧進僧寺院交通設備修善事業などを行う僧)である宇都宮長老からも実力認められ、その勢力基盤引き継いだこと、などの理由挙げられる文観故郷播磨国で、律僧として土木事業通じた民衆救済尽力した。さらに、文観はそれと並行して様々な事業手掛け、以下のように、多芸多才僧侶として片鱗見せ始めていた。 律僧としての一面文観生涯根幹民衆救済志す律僧であり、以下のような土木事業手掛けた蛸草郷の耕地開発文観は、当時耕地だった加古川市神野町日岡神社周辺地域中世蛸草北村呼ばれた地域)から開拓事業始め曇川沿って南東方向近世蛸草郷と呼ばれた地域)へ開墾進めていった。この開拓事業文観入滅後も文観後継者たちによって続けられたと見られ14世紀末には天満大池整備という一大事業が完遂された。 特筆すべきは、東播磨加古川水系五ヶ井用水の修築事業である。東播磨干魃がよく起こる地帯のため、古来より用水施設発達してきた。中世には、五ヶ井用水対し何者かによって受益面積200ヘクタールから700 ヘクタールへの修築増設事業が行われ、地域の富を生み出す基幹部として、数百以上に渡る公益もたらした日本史研究者金子哲は、当時史料や各豪族寺社勢力版図調査し、この事業文観開始したのである結論している。 政僧としての一面:東播磨正和石塔群後述)を造営し、これらを大覚寺統後醍醐天皇皇統)に奉献することで、後宇多上皇皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)といった時の最高権力者知遇支援得た学僧としての一面文観正和3年1314年9月21日数え37歳時に『西玉抄』という書を著して、師の信空から称賛されるなど、真言僧として仏教学への関心深めていった。 画僧としての一面西大寺では自分絵筆を握る絵師としての活躍だったが、播磨国では、美術監督として「東播磨正和石塔群」という仏教美術作品造営監修した。金子哲評価によれば、これらは「第一線級の大型最上質の石塔」である高い芸術的価値を持つ石塔群であり、伊行恒や念心といった名工もしくはその関係者招いて作られたのではないか、という。2019年時点発見されている4基すべてが兵庫県指定文化財指定されている。

※この「播磨国常楽寺時代略歴」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「播磨国常楽寺時代略歴」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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