五ヶ井用水の修築事業
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民衆救済事業における文観最大の貢献の一つとも言えるのが、加古川水系の五ヶ井用水の修築である。 東播磨は気候的に干魃がよく起こる地帯であり、そのため古くから用水施設が整備された。伝説では、聖徳太子がいた7世紀初頭の古代から、加古川東岸の200ヘクタールを潤す原・五ヶ井用水が作られたと言われている。五ヶ井用水はさらに中世に大規模な修築工事が行われ、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、「五ヶ井堰」とも言われた。五ヶ井用水は、加古川大堰が1989年に完成するまで、地域の富を生み出す基幹として利用され続けた。 金子哲は、この中世の五ヶ井用水修築事業は、文観が主導したものであると唱え、以下の議論を行った。 まず、五ヶ井用水修築に関しての寺伝を有するのは、加古川市加古川町の常楽寺・加古川町北在家の天台宗鶴林寺・加古川町寺家町(当時)の曹洞宗常住寺(のち本町へ移転)である。 常楽寺は、既に述べたように、真言律宗西大寺の末寺であり、文観の本拠地である。 鶴林寺は、真言律宗ではない。しかし、弘安8年(1285年)8月9日に真言律宗開祖の叡尊が立ち寄ったことや(『感身学正記』)、応永年間(1394年 - 1428年)に復興された建築物の様式、そして大工集団が南都興福寺風の名前を持っていることから、中世には西大寺勢力と繋がりがあったのは確かである。 常住寺は、当時は西大寺末寺の真言律宗の寺だったと思われる。その論拠として、明徳年間(1390年 - 1394年)の「西大寺末寺帳」に、播磨国の末寺として、「常住寺〈四十九院〉」とある。これを「行基四十九院」という古代寺院に結びつける説もあったが、播磨国に行基の49院は存在しない。当時の用例に照らし合わせれば、ここでいう四十九とは夙(しゅく)の俗な書き方であり、常住寺は夙院、つまり宿院(宿を管理する寺院)だったと考えられる。加古川町寺家町は、当時の地形からして宿院を設置するには良い位置だったため、寺家町の常住寺が、西大寺末寺帳に言う宿院の常住寺と同じものであることは確実である。 このようにして見ると、五ヶ井用水修築に関する言い伝えを持つのは、すべて中世には西大寺勢力と密接だった寺院であり、真言律宗によって修築が進められたことは疑問の余地がない。 『加古川市史』第5巻所収「五ヶ井由来記」(明暦3年(1657年)10月頃?)では、日岡神社の日向明神と聖徳太子が力を合わせて修築したのが五ヶ井用水である、という伝説が語られる。文観の祖父の一人は日岡神社神主だったと推測され、さらに文観の常楽寺は日岡神社の別当寺(神社を管理する寺)であり、かつ聖徳太子も真言律宗で尊ばれた存在である。よって、これはおそらく文観ら真言律宗西大寺勢力によって修築が進められたという記憶が、伝承の形で残されたものと考えられる。 修築時期も文観の時代であると特定が可能である。『兵庫県史 史料編中世九、古代補遺』所収の観応元年(1350年)12月5日付「足利尊氏袖判下文案」(森川清七所蔵文書)からは、この地域が守護の直接的影響下にあったことがわかる。しかし、南北朝時代・室町時代には、守護所が播磨国西部に移動し、それに伴ってこの一帯は小規模な領主が群雄割拠するようになり、用水修築のような大工事を行うことができる勢力がいなくなる。よって、西大寺勢力を率いる文観という強力な指導者がいた鎌倉時代末期以外に、五ヶ井用水の修築が出来たとは考えにくい、という。
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