五ヶ井建設伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 05:28 UTC 版)
江戸時代に著された「五ヶ井由来記」(明暦3年(1657年)10月頃成立?)が語る伝説によれば、加古川の下流域左岸の基幹となる井筋である五ヶ井用水は、日向明神(日岡神社の神)と聖徳太子が心を合わせて築いたものであるという。その合意は、日向山の近くの「荒ヶ瀬二つ橋」で行われたため、この橋のことを「談合橋」という別名で呼ぶようになったといわれる。 日本史研究者の金子哲は、13世紀末から14世紀半ばに活躍した真言律宗・真言宗の僧侶で後醍醐天皇の腹心だった文観房弘真は、祖父の一人が日岡神社の神主だった可能性もあるのではないか、としている。また、この時代に行われたとみられる五ヶ井用水の修築事業は、文観が1300年代から1310年代にかけて、真言律宗の本部である奈良の西大寺からの支援に加えて、日岡神社など地元の勢力からの助力も受けて行ったのではないかと主張している。そして、「五ヶ井由来記」の説話は、日岡神社の勢力と聖徳太子信仰が強かった真言律宗西大寺の勢力が、文観を通じて共同で修築事業を行ったという記憶が伝説化した残滓なのではないか、と推測している。
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