播磨但馬間通船計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:06 UTC 版)
晩年は、藩の渉外を担当し、しばしば財政難に苦しむ藩のため金策に奔走した。時には周囲から妬まれ、「銀子の功」に立身を画策したと讒言されたようだ。晩年の宝暦6年(1756年)頃からは、「万民の大益、諸国民の益」のため、北前船を播磨国の市川と但馬国の円山川に通す航路を開拓する計画に、自藩と直接関係がないにもかかわらず賛同、その資金集めに尽力する。しかし、幕府の許可は得たものの、出資者の事情により計画は中止されてしまった。企画倒れに終わったものの、耽美で趣味的な文人画家として語られることが多い淇園が、一方で経世済民の理想を内に秘め人間社会に対する強い関心を持ち続けたことを裏付ける逸話である。 この計画挫折が響いてか、その暫く後に死去。享年56。大和郡山市黄檗宗発志院(現在廃寺)に葬られる。里恭の死後、木村蒹葭堂によって彼の代表的な随筆『雲萍雑志(うんぴょうざっし)』が刊行(1796年)されている。ただし、森銑三はこの書を山崎美成の偽作と断じている。
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