播磨国法華山時代略歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
文観は、鎌倉時代中期の弘安元年1月11日(1278年2月4日)、播磨国北条郷大野(兵庫県加古川市加古川町大野)の豪族である大野重真の孫として誕生した。大野重真は、宇多天皇の孫で宇多源氏の祖である源雅信から第13代目の子孫であると自称した。また、文観の母は観音菩薩に深く帰依しており、文観の観音信仰は母に起因するものと考えられている。伝説によれば、文観の母は懐妊時に観音菩薩の夢を見て観音から白の宝珠を授けられたが、この奇瑞によって生まれたのが文観なのであるという。 正応3年(1290年)、文観は数え13歳で、播磨国の天台宗法華山(一乗寺)に併設する真言律宗の寺院において、巌智律師および観性房慶尊の指導によって仏門に入った。慶尊はもともと真言律宗開祖の叡尊の弟子であり、さらにこの7年前には叡尊が法華山を訪れて大規模な布教活動を行うなど、法華山は播磨国における真言律宗布教の拠点だった。だが、奇しくも叡尊は文観が仏門に入ったこの年に入滅したため、文観と叡尊が会うことはなかった。 正応4年(1291年)2月上旬には、文観は生涯を貫く事業となる文殊信仰を表明した。文殊は菩提心(悟りを求めると共に他者に善行を施す利他の心)を人に促す存在とされ、真言律宗の中心となる菩薩だった。文観の房号「文観」と律僧としての法諱(本名)「殊音」は、「文殊」「観音」のアナグラムであるとするのが通説である。
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