学僧としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
正和3年(1314年)9月21日、数え37歳のとき、文観は大和国(奈良県)の西大寺長老御坊で、『西玉抄』という書を撰述した。これは、真言律宗の歴史を真言密教の側面から照らして書いたもので、その相承次第(継承の事情)を、叡尊→信空→文観という流れの上で記したものという。信空も翌年3月10日にこの書を閲覧・審査し、「誠此当流之規模也相叶先師之冥慮歟」(本当にこの書は我が流の要である。今は亡き先師(叡尊)の思し召しにも相叶うに違いない)等々と絶賛した。事相家(教相家=理論家に対し、実践修行の研鑽・研究をする仏教学者)としての文観のキャリアの形成を見て取ることができる。 このように、1310年代前期から中期にかけて、文観は播磨国(兵庫県)に留まるだけではなく、中央との接触を保っていた。次節で述べるように、大覚寺統(後醍醐天皇の皇統)との関係もこの頃築いていたと見られ、中央での名声が播磨国でのさらなる活躍を促すことに繋がったとみられる。
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