東播磨正和石塔群の造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
文観は播磨国において、民衆救済を行うだけではなく、美術監修者としての才能も開花させていた。 金子哲を始め、 馬淵和雄・山川均・大江綾子・小林誠司らによって加古川下流域の石塔群の調査が行われ、正和2年(1313年)から正和5年(1316年)にかけて作られた4つの石塔が残存していることが確認された。金子の評価によれば、これらは「第一線級の大型最上質の石塔」であるという。作風的に、これらの石塔は14世紀に活躍した伊行恒や念心といった名工もしくはその関係者によって作られたとみられる。2019年時点で発見されている4基すべてが兵庫県指定文化財に指定されている(#作品一覧)。 もう一点重要なのが、これらが大覚寺統、つまり後宇多上皇やその息子の皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの後援で作られたとみられることである。石塔群は大覚寺統ゆかりの地域に立てられている。さらに、石塔の一つには「金輪聖王(略)勅造立之」と掘られており、当時の金輪聖王(天皇)である持明院統の花園天皇は真言律宗との繋がりは薄いため、後宇多か尊治(後醍醐)の意向で作られたことになる。また、この石塔に刻まれている「アーク」の梵字は、文観の他作品の筆跡と一致することから、文観がこの時点で、道順や信空からの紹介によって、大覚寺統の天皇家と繋がりを持っていたのも確かである。 さらに、この造営には道智という当時の瀬戸内海仏教勢力の調整役的な僧侶も関わっており、大覚寺統・真言律宗西大寺勢力(叡尊→文観)・真言律宗極楽寺勢力(忍性)・東大寺戒壇院流勢力らが結集した、大規模な事業だった可能性も指摘されている。
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