東支隊とは? わかりやすく解説

東支隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:25 UTC 版)

間島出兵」の記事における「東支隊」の解説

東正彦少将率いる東支隊は、延吉県和竜県方面担当した高島師団長同年10月13日訓令で、東少将対し武装組織敦化県及び安図県方面協定管轄外)に脱出させることのないよう特に注意要する示唆した。東少将同月15日竜井到着し東支隊を編成同月17日機関銃有する500600人の武装組織が頭道溝の西南10里の青山付近の谷に留まるとの情報得て、以下の部隊編成し行動指示した山田隊(主力歩兵第73連隊)は速やかに賊の西方進出し退路断ち主力をもって討伐する騎兵連隊後車廠溝、前車廠溝、昇平嶺から迂回し老嶺方面退路遮断努める。 歩兵第74連隊の2中隊等は頭道溝にて待機支隊予備隊)。 主力たる山田隊は二縦隊組んで青山里に向けて進軍同月18日に右縦隊中村大隊は頭道溝から、山田隊は竜井からそれぞれ出発し、右縦隊蜂蜜溝を経て青山里へ進軍同月19日蜂蜜溝の西南3000メートルの谷で40人の中国人馬賊衝突し2人負傷させてこれを撃退した山田隊は頭遣溝南方八家子を経て同月20日三道溝に到着した山田隊は武装組織同月20日未明奥地逃れたことを知り、これを捜索しつつ同地宿営した同月21日には右縦隊合流山田隊は密林捜索して付近部落掃討し、安川少佐指揮する選抜歩兵1中隊追撃隊として老嶺方面に向かうと、宿営地から1里のところに600人ほどの武装組織宿営地跡を発見した追撃隊は警戒しつつ600700メートル程進んだところで武装組織銃撃を受け、直ち応戦して30分程の戦闘行ったところで武装組織逐次退却をはじめ、山田隊の主力加えて老嶺方面追撃したが、武装集団密林火を放ち、その隙に老嶺の東南の谷や密林一部残し安図県方面退却してしまったため、ひとまず再編成のために主力位置撤退した。この戦いにより、日本軍戦死者兵卒4人、負傷者下士官1人兵卒2人武装組織遺棄死体16であった。(青山里の戦い騎兵連隊は、昇平方面湿地多く行動難しいのを見て、漁朗宿営した。翌22日午前5時30分金佐鎮配下士官生徒隊を基幹とする約300人の武装組織来襲して交戦となり、支隊予備隊も急行したものの、武装組織874高地占領した地の利得て頑強な抵抗示し、その抵抗は5時間にも及んだ午後0時30分、道に迷っていた飯大隊戦線加わり遂にこれを撃退した。この戦闘により、日本軍戦死下士官1人兵卒2人負傷者兵卒12人であり、武装組織側の死傷者詳細不明だ60人に達するとみられ、捕虜5人、小銃22挺、弾薬2200及び機関銃1挺を捕獲した武装組織南西方面密林四散し支隊予備隊はその撤退方面捜索行った明らかにはならなかった。(漁朗戦い同月24日夜8時、天宝山守備隊(歩兵第73連隊第6中隊)に対し40人、同夜3時には約15人の武装組織来襲し、2人倒しこれを撃退した。この集団は、22日に漁朗戦闘行った一団であると判断された。部隊その後天宝山の掃討従事した。 東支隊長はさらなる兵力集結望んだが、地形などのこともあって意のままにならず、同月24日にみずから歩兵150人、機関銃3挺を率いて、北に逃れたとされる武装組織追って漁朗出発蜂蜜溝の北2000メートル小川沿って西進すると、同日午後4時武装組織宿営地跡を発見し付近密林捜索行い、古洞川を6里遡ったところで、同月25日10時ごろ武装組織宿営地の煙を発見し同日12時ごろ夜襲敢行して撃退するも、なお付近に散在して乱射継続したため、無益な損害避けて付近最高峰である1743高地兵力集結させた。この戦闘により日本軍死傷者はなく、武装組織死傷者30人小銃10挺、弾薬10000捕獲したその後捕虜尋問により、野営していた集団洪範図率い300人(内武装250人)、金佐鎮率い30人だったことが明らかになった。しかし兵力の不足からこれ徹底的に掃討することはできず、同月26日蜂蜜溝に帰還した。この部隊同月24日午後3時から同月26日午後4時まで密林中の行動続けていたため、その疲労極限だった。(古洞河の夜襲同月26日大庭二郎朝鮮軍司令官は、田中義一陸軍大臣宛の電報で、奉天省属し間島の外にある安図県掃討許可求めたが、同大臣は、提岩里事件を例に挙げ一般中国人朝鮮人危害加えて国際問題化することは避けたいとして、協定一方的破棄不許可とし、同時に協定交渉当たった佐藤少将通して張作霖へ、この件を通告した同月27日高島師団長は、東支隊の正面にいる集団武装組織主力みなし、兵力不足を補うため、歩兵第74連隊第1大隊会寧から急派させる独断事後承認申請し朝鮮軍司令官承認を得る。東支隊長は武装組織大部分はいまだ老山嶺付近にいると分析し後車廠溝、漁朗三道溝、青山里にいたる哨戒線を張り索敵努めたが、少々遺棄され武器弾薬捕獲しただけで武装集団遭遇することはなかった。 この間加納信暉大佐率い騎兵第27連隊加納隊)は、仏寺方面掃討努め大韓国民会金剛以下幹部数名捕らえた包囲された際の金剛は、朝鮮人家屋の倉の穴の中に隠れその上に堆積させさらに残雪覆って潜伏していた。 武装組織特徴は、普段良民装い甚だしき婦人装って日本兵危害加えようし、また中国語堪能であるため中国人との識別が困難で、その捜査は困難を窮めた。また退却する際には、斥候主力反対方向に向かわせて日本軍誘導した。東支隊はその後捜査を行うとともに地域親日的宣伝努め投降者は次第増した

※この「東支隊」の解説は、「間島出兵」の解説の一部です。
「東支隊」を含む「間島出兵」の記事については、「間島出兵」の概要を参照ください。

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