東支隊
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東正彦少将が率いる東支隊は、延吉県、和竜県方面を担当した。高島師団長は同年10月13日の訓令で、東少将に対し、武装組織を敦化県及び安図県方面(協定の管轄外)に脱出させることのないよう特に注意を要すると示唆した。東少将は同月15日に竜井村に到着し東支隊を編成、同月17日に機関銃を有する500~600人の武装組織が頭道溝の西南約10里の青山里付近の谷に留まるとの情報を得て、以下の部隊を編成し、行動を指示した。 山田隊(主力:歩兵第73連隊)は速やかに賊の西方に進出し退路を断ち主力をもって討伐する。 騎兵連隊は後車廠溝、前車廠溝、昇平嶺から迂回し老嶺方面の退路の遮断に努める。 歩兵第74連隊の2中隊等は頭道溝にて待機(支隊予備隊)。 主力たる山田隊は二縦隊を組んで青山里に向けて進軍、同月18日に右縦隊の中村大隊は頭道溝から、山田隊は竜井村からそれぞれ出発し、右縦隊は蜂蜜溝を経て青山里へ進軍、同月19日に蜂蜜溝の西南約3000メートルの谷で40人の中国人馬賊と衝突し、2人を負傷させてこれを撃退した。山田隊は頭遣溝南方の八家子を経て、同月20日に三道溝に到着した。 山田隊は武装組織が同月20日未明に奥地へ逃れたことを知り、これを捜索しつつ同地へ宿営した。同月21日には右縦隊が合流、山田隊は密林を捜索して付近の部落を掃討し、安川少佐の指揮する選抜歩兵1中隊が追撃隊として老嶺方面に向かうと、宿営地から1里のところに600人ほどの武装組織の宿営地跡を発見した。追撃隊は警戒しつつ600~700メートル程進んだところで武装組織の銃撃を受け、直ちに応戦して30分程の戦闘を行ったところで武装組織は逐次退却をはじめ、山田隊の主力も加えて老嶺方面に追撃したが、武装集団は密林に火を放ち、その隙に老嶺の東南の谷や密林に一部を残し安図県方面に退却してしまったため、ひとまず再編成のために主力の位置に撤退した。この戦いにより、日本軍の戦死者は兵卒4人、負傷者は下士官1人、兵卒2人、武装組織の遺棄死体は16人であった。(青山里の戦い) 騎兵連隊は、昇平嶺方面に湿地が多く行動が難しいのを見て、漁朗村に宿営した。翌22日午前5時30分、金佐鎮配下の士官生徒隊を基幹とする約300人の武装組織が来襲して交戦となり、支隊予備隊も急行したものの、武装組織は874高地を占領した地の利を得て頑強な抵抗を示し、その抵抗は5時間にも及んだ。午後0時30分、道に迷っていた飯野大隊も戦線に加わり遂にこれを撃退した。この戦闘により、日本軍の戦死は下士官1人、兵卒2人、負傷者兵卒12人であり、武装組織側の死傷者の詳細は不明だが60人に達するとみられ、捕虜5人、小銃22挺、弾薬2200及び機関銃1挺を捕獲した。武装組織は南西方面の密林に四散し、支隊予備隊はその撤退方面の捜索を行ったが明らかにはならなかった。(漁朗村の戦い) 同月24日夜8時、天宝山守備隊(歩兵第73連隊第6中隊)に対し約40人、同夜3時には約15人の武装組織が来襲し、2人を倒しこれを撃退した。この集団は、22日に漁朗村で戦闘を行った一団であると判断された。部隊はその後、天宝山の掃討に従事した。 東支隊長はさらなる兵力の集結を望んだが、地形などのこともあって意のままにならず、同月24日にみずから歩兵150人、機関銃3挺を率いて、北に逃れたとされる武装組織を追って漁朗村を出発、蜂蜜溝の北2000メートルの小川に沿って西進すると、同日午後4時に武装組織の宿営地跡を発見し、付近の密林の捜索を行い、古洞川を6里遡ったところで、同月25日夜10時ごろ武装組織の宿営地の煙を発見し、同日夜12時ごろ夜襲を敢行して撃退するも、なお付近に散在して乱射を継続したため、無益な損害を避けて付近の最高峰である1743高地に兵力を集結させた。この戦闘により日本軍の死傷者はなく、武装組織の死傷者は30人、小銃10挺、弾薬約10000を捕獲した。その後、捕虜の尋問により、野営していた集団は洪範図率いる300人(内武装250人)、金佐鎮率いる30人だったことが明らかになった。しかし兵力の不足からこれを徹底的に掃討することはできず、同月26日に蜂蜜溝に帰還した。この部隊は同月24日午後3時から同月26日午後4時まで密林中の行動を続けていたため、その疲労は極限だった。(古洞河の夜襲) 同月26日、大庭二郎朝鮮軍司令官は、田中義一陸軍大臣宛の電報で、奉天省に属し間島の外にある安図県の掃討許可を求めたが、同大臣は、提岩里事件を例に挙げ、一般の中国人や朝鮮人に危害を加えて国際問題化することは避けたいとして、協定の一方的破棄を不許可とし、同時に協定の交渉に当たった佐藤少将を通して張作霖へ、この件を通告した。 同月27日に高島師団長は、東支隊の正面にいる集団を武装組織の主力みなし、兵力不足を補うため、歩兵第74連隊第1大隊を会寧から急派させる独断の事後承認を申請し、朝鮮軍司令官の承認を得る。東支隊長は武装組織の大部分はいまだ老山嶺付近にいると分析し、後車廠溝、漁朗村、三道溝、青山里にいたる哨戒線を張り索敵に努めたが、少々の遺棄された武器弾薬を捕獲しただけで武装集団と遭遇することはなかった。 この間、加納信暉大佐率いる騎兵第27連隊(加納隊)は、銅仏寺方面の掃討に努め、大韓国民会の金剛以下幹部数名を捕らえた。包囲された際の金剛は、朝鮮人家屋の倉の穴の中に隠れ、その上に薬を堆積させさらに残雪で覆って潜伏していた。 武装組織の特徴は、普段は良民を装い、甚だしきは婦人を装って日本兵に危害を加えようとし、また中国語が堪能であるため中国人との識別が困難で、その捜査は困難を窮めた。また退却する際には、斥候を主力と反対方向に向かわせて日本軍を誘導した。東支隊はその後、捜査を行うとともに地域に親日的な宣伝に努め、投降者は次第に増した。
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