創設から日中戦争終結まで
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「朝鮮義勇軍」の記事における「創設から日中戦争終結まで」の解説
1942年7月14日、朝鮮義勇隊華北支隊を朝鮮義勇軍華北支隊に改編した。朝鮮独立同盟(朝鮮語版)(華北朝鮮独立同盟とも言う)の軍事組織であり、朝鮮人共産主義者の中心人物で、長征にも参加した武亭が司令官に就任した。のちに日本軍から逃亡した朝鮮人兵士(朝鮮人日本兵)らが多数加わり、中国共産党の支援を受けて華北及び華中地域で八路軍や新四軍の下で日本軍に対する宣伝活動等を行った。日中戦争時は数百人しかいなかったが、崔昌益は「朝鮮人民の唯一の武装隊伍」を自負した。 華北支隊は各地で中国共産党が統制する抗日遊撃区で活動した。太行山根拠地に最も集中しており、山東省や陝西省、華中にも分散していた。 1942年8月、李益星が華北支隊第2隊隊員13人を率いて晋察冀辺区に進出した。八路軍115師の根拠地であり、ここにはすでに朝鮮革命家の林平、蔡國藩、高生鎬、金武が活動していた。ここには1941年12月10日に朝鮮青年連合会晋察冀支会が設立されていたが、朝鮮独立同盟晋察冀分盟に改編され、軍隊は李益星が責任を持ち、敵後工作は蔡國藩が引き受け、晋察冀分盟は孔明宇が担当した。晋察冀地区は朝鮮人が多かった北京、天津、唐山に容易に進出することができ、中国東北部や朝鮮国内に拠点を作るのに便利であった。 晋西北地区は呂梁山脈を中心とする山西省西北山地であり、賀竜の八路軍第120師が駐留していた。1942年11月13日に金世光、文明哲、崔采、崔英が朝鮮独立同盟晋西北分盟を創立。分盟責任者は金世光となり、組織委員を務めた文明哲は八路軍と共に戦って戦死した。 延安を中心とした陝甘寧辺区は、太行山抗日根拠地の次に朝鮮革命家が多く集まるところであった。抗日軍政大学東北幹部訓練班には朝鮮人青年、八路軍第359旅には朱徳海と李権武がいた。鄭律成と朱徳海はこの地区の朝鮮青年連合会支会を担当していたが、1942年に太行山から金枓奉、韓斌、尹治平、趙烈光、權赫(日本人女性)、燕軍などが到着し、1943年1月10日、朝鮮独立同盟延安分盟が創立した。 山東省では、華北支隊第1隊隊員が活動した。朱革が朝鮮独立同盟山東分盟組織を引き受け、李ミョン(리명)が主任となった。魯民は膠東分盟を設立し、終戦時には50人の盟員を確保していた。 河北省昌黎県では、朝鮮独立同盟冀熱遼分盟が創立され、李大成が組織委員、陳國華が宣伝委員、朱然が政治部主任を務めることになり、責任者は晋察冀分盟の軍責任者だった李益星であった。山西省太岳山地域には、李オクグン(리옥근)、関鍵、趙少卿、河仰天が八路軍敵軍工作部で活動した。 新四軍統制地域では、1944年1月に洪沢湖付近で朝鮮独立同盟華中分盟と朝鮮義勇軍華中支隊が成立し、李成鎬、金潤德、孫達が主な責任者となった。 1942年11月1日、華北朝鮮青年革命学校を開校。校長は武亭、教務主任は金學武であった。華北敵占領区から朝鮮人が脱出してくる場合に備えて、彼らを教育し、朝鮮義勇軍に参加させる目的があった。 1944年、朝鮮義勇軍と朝鮮独立同盟は、各地の隊員を比較的安全な延安に集結させ、軍事訓練と政治学習を実施することに決定した。同年1月末、太行山の隊員と学生約200人が朴孝三の引率で出発し、4月7日に延安に到着した。冀東支隊の李大成は30人ほどの隊員を率いて何重もの封鎖を潜り抜け、1945年2月、延安に到着した。 1944年10月、朝鮮革命軍政学校が設立された。朝鮮軍政学校は4個の区隊に分かれ、第1区隊は区隊長の趙烈光と協理員の方虎山が、第2区隊は区隊長の王子仁が、第3区隊は区隊長の全宇と協理員の洪順官が、第4区隊は区隊長の金克と協理員の尹公欽が担当した。 1945年8月11日に八路軍総司令朱徳が発令した第6号命令で八路軍と元東北軍の各部と共に東北に進出した。当時の兵力は700人ほどであったが、8月16日に韓青が瀋陽で部隊を組織し、約千人の兵力となった。
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