創設から高砂一門時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 08:01 UTC 版)
歴史上最初に確認できる井筒部屋は、1884年(明治17年)に引退した6代井筒の幕内・井筒菊治郎が興した。6代井筒は二枚鑑札で井筒部屋を運営していたが、1887年(明治20年)に死去して部屋は閉鎖された。 その後、明治後期に第16代横綱・初代西ノ海(薩摩国高城郡出身)が8代井筒を襲名して高砂部屋から分家独立し、現在までの流れの源となる井筒部屋を創設した。8代は第25代横綱・2代西ノ海を初めとして、駒ヶ嶽、大江山松太郎の2大関や関脇・逆鉾(鹿児島県出身)を育て上げた。鹿児島出身だったことから、同県出身の若者の多くがその後も井筒部屋の門を叩いている。なお、6代と8代の間に師弟関係はない。 2代西ノ海(鹿児島県出身)が9代井筒を継承して、第30代横綱・3代西ノ海(鹿児島県出身)をはじめ、大関・豊國福馬、関脇錦洋与三郎、小結宮城山正見、幕内逆鉾盛吉、一ノ濵善之助、泉洋藤太郎、星甲実義を育成し、先代井筒が部屋を興して以来最高となる繁栄を築いた。温厚な性格で人望もあったことから日本相撲協会取締を務めたが、2度目の任期の途中に役員改選で東西両陣営から「6名ずつ選出」とした談合を破って井筒系の年寄を増やしたことが反陣営からの逆鱗に触れ、取締を途中辞任して1931年(昭和6年)1月27日に自殺した。 9代逝去後、星甲實義(鹿児島県出身)が10代井筒として部屋を継承し、幕内・鶴ヶ嶺、小松山貞造らを育てた。また独立して浅香山部屋を興した3代西ノ海の逝去後、残された弟子を引き取り、源氏山たちを幕内に育て、井筒部屋を盛り立てた。
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