創設から発展期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 06:07 UTC 版)
「ハイアリアパーク競馬場」の記事における「創設から発展期」の解説
1920年に投資家ジェームズ・ブライトと航空技師グレン・カーチスらによって計画された競馬場で、ブライトとカーチスが中心となって出資を募り、同年に建物とコースが建造された。開場当初は競馬場ではなく、1922年にアメリカ発となるパリミュチュエル方式採用のグレイハウンド競走競技場として開場している。 その後投資家のジョセフ・スムートの協力を取り付け、1924年にマイアミジョッキークラブを創設し、1925年6月15日にサラブレッド競馬の競馬場として開場した。当時のハイアリアパークには1周1マイルのダートコースとスタンド、クラブハウス、21棟の厩舎があり、さらに競馬以外の娯楽施設としてダンスホールやハイアライフロントン、ジェットコースターなども備えていた。 1926年、競馬場は大規模なハリケーンによって被害を受け、しばらく開催できなくなってしまった。その状況を救ったのがオーナーブリーダーでもあったフィラデルフィアの資産家ジョセフ・アーリー・ワイドナーで、1930年に競馬場を買収し、同じくオーナーブリーダーのエドワード・ライリー・ブラッドリーの協力を取り付けて競馬場の再建に取り組んだ。ワイドナーは再建にあたって建築家のレスター・ゲイスラーを招き、エプソム競馬場やロンシャン競馬場など欧米各地の競馬場を視察させて、その着想を練らせている。 ゲイスラーの設計のもとで作られた新競馬場は、1932年1月14日に開場した。新ハイアリアパークは新しい設備を積極的に導入しており、再開の翌年にはアメリカで初となる芝競走用のコースが作られ、その翌年には同じくアメリカで初となるトータリゼータシステムが、さらに1946年には写真判定用の撮影機材が導入されている。また、ハイアリアパークの名物であるフラミンゴは1934年に導入されたもので、最初にキューバから20羽を輸入し、後の1947年にさらに100羽を導入している。造園にも力を入れ、1万本のヤシなど様々な植物を植えている。これらの景観から競馬のみならず、冬場の観光地としての人気も集めていた。 競馬場としても冬場の東海岸・中部地区における主要競走の開催地として名高く、特にフラミンゴステークスとワイドナーハンデキャップは後にG1として格付けされていた。出走を経験した競走馬の質も高く、特にフラミンゴステークスからは三冠馬サイテーションを始めとしたケンタッキーダービー優勝馬を多く輩出して注目を集めていた。 1954年にガーデンステート競馬場などの運営者であるユージン・モリに750万ドルで買収され、同氏の経営のもとで噴水・展示館・水族館などが建造された。この頃造られたもので特に有名なものが、1965年に建てられたサイテーションの銅像である。その後の1972年に2150万ドルでジョン・ガルブレスに買収され、『The Champ』や『Let It Ride』といった映画の撮影現場としても活用されるようになっていった。 ハイアリアパークは1979年3月2日にアメリカ合衆国国家歴史登録財として登録され、1988年にも別部門で再度登録された。
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