創設から移転まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 14:55 UTC 版)
「船橋オートレース場」の記事における「創設から移転まで」の解説
オートレースの創設にあたり千葉県が開催することを表明した際、船橋市と市川市が場の誘致に名乗りを上げたが、当時建設中だった船橋競馬場の馬場内にオートレース専用の走路も併設することで競馬場所有者(現在の株式会社よみうりランド)と船橋市が合意し、1950年(昭和25年)8月に競馬場が開設された直後の同年10月29日に初開催となる『第1回船橋オートレース』が行われている。初日には高松宮宣仁親王が来場し、テープカットを行った。来場者数は午後二時の段階で25000人を超え観客柵からはみ出すほどの盛況となった。 しかし併設による競馬とオートレースとの開催日振り分けで互いに開催日数が制限され、競走車の騒音が競走馬に影響を与えていた。当初競馬場内での開催は5年ほどの暫定措置として承認されていたため、次第に競馬場外への移転を迫られることになる。 1955年(昭和30年)より船橋市もレース場の所在自治体としての開催権を得て、千葉県と共に施行者として交互に開催するようになったが、船橋オートレースの運営団体である当時の千葉県小型自動車競走会には創設時の経緯から市川市の関係者も多数いたことから、1958年(昭和33年)の年明けから市川市内への移転が本格的に検討されたものの、当時の船橋市は財政赤字を抱えていたため開催権を返上することになる市川市への移転を拒否した。またオートレース場の移転に関する手続き自体も定まっていなかったこともあり、移転に関する動きはしばらく停滞する。 しかし1962年(昭和37年)の小型自動車競走法改正で移転について明文化され、1965年(昭和40年)4月には当時の通産省省令によりダート走路の使用不可が発表されたことから競馬場外への移転が不可避な状況になった。この頃競馬場の近隣に船橋サーキットを開設していた朝日土地興業株式会社から、サーキットの経営不振により同地へのオートレース移転引き受けの申し出があり、各関係団体との協議の結果、同地へ移転し朝日土地興業が土地を所有したまま、よみうりランドが場内の施設を造成し所有する形態でも、開催日数の増加により収益が見込めたことから移転の方針で固まる。その際同地に隣接する船橋飛行場を挟んだ東側に若松団地の造成を計画していた当時の日本住宅公団が騒音悪化の恐れから反対を表明したが、まだ団地が建設前であったことから互いに騒音対策を施すことで公団側も譲歩し、こうしてオートレース場の移転が決定した。 1967年(昭和42年)7月のサーキット閉鎖から走路の工事に着手し、年内に完成させ1968年(昭和43年)1月に移転した。1969年(昭和44年)には東側に騒音対策を目的として防音壁を兼ねたスタンドを完成させ、サーキット時代から流用されていた海側スタンドも1974年(昭和49年)から2回に分けて改築し1977年(昭和52年)に完成した。 1969年(昭和44年)には、八百長事件で現役選手3人が逮捕。さらに翌年には黒い霧事件も発生し、レースそのものに疑惑の目が向けられるようになった。 1974年(昭和49年)1月7日、本命選手がレース途中で棄権したことを契機に観客が八百長だと騒ぎだして暴動に発展、投石や放火が行われた。
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