開場当初
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京浜工業地帯の一角を占める川崎市は、多くの企業が経営や製造の拠点を置いており、戦前から社会人野球が盛んな土地柄だった。1951年(昭和26年)、市内で新たな社会人野球向けの野球場を建設する機運が高まり、市と日本鋼管、東芝、味の素、日本コロムビア、昭和電工、いすゞ自動車などの主要企業が共同出資し「株式会社川崎スタジアム」が設立され、川崎市富士見の富士見公園内に川崎球場が竣工した。1952年(昭和27年)3月に内野スタンドが設置され、4月3日に初めてのプロ野球公式戦として東急フライヤーズ対大映スターズ戦が開催された。試合は5-3で東急が勝利。同年の川崎でのプロ野球公式戦はパ・リーグが東急や大映の他、毎日オリオンズ主催で40試合、セ・リーグが読売ジャイアンツ(巨人)及び国鉄スワローズ主催で7試合の計47試合が行われ、1953年(昭和28年)も計23試合が開催された。当時はセ・パ計5球団が後楽園球場を本拠地としていたことから、川崎は首都圏でのプロ野球の日程が過密化していたのを解消するのに役立っていたといわれる。 外野の広さは公称で両翼90m、中堅120mだが実際はもっと狭く、左中間や右中間の膨らみもほとんど無かった。実測値は両翼89m、中堅118m、左中間105m、右中間103mで、実際はこれよりさらに狭隘だったとする説もある。実際に当時、一部の新聞発表で両翼は実測87mと記載があった。そのため当時の球場の中でも狭くて本塁打の出やすい球場として知られた。中堅最深部が、本塁と二塁を結ぶ線の延長よりやや左に寄った変形球場のため、打者の視点からは違和感を覚えることもあったとされる。当初、外野スタンドはごく最小限の設備で建設され、その後、左右対称に増築する計画が立案されたものの、右翼場外に道路を通すことになったのに伴い、右翼側の増築部は道路の計画に沿って設計を見直し、右中間からポール際にかけて上半分を切り取るような変則的な構造となった。このため右翼側スタンドは非常に狭隘で、右翼方向への本塁打が場外に飛び出すことがよくあり、右翼スタンド上段に高い防球フェンスが設けられた。(国道の計画はその後、経由地が変更となり、代わって市道が設けられた。) 1954年(昭和29年)に発足した高橋ユニオンズが、プロ球団で初めて川崎球場をフランチャイズとした。6月にプロ本拠地としては歴代6球場目となる照明設備が増設され、ナイターの開催が可能となった。当時の後楽園球場の照明が最大照度800ルクスだったが、川崎は最大1100ルクスと高照度を誇っていた。ただ6基の鉄塔の内、右翼側の照明塔は前述の敷地の関係上、スタンドを跨ぐ格好で設けざるを得なかった。設置当初はまだ電力供給が不安定だったため、周辺の工場群の電力消費がピークを迎える時間帯がナイターと重なった時に、電圧が低下して照明が消灯してしまうハプニングもしばしば発生した。 10月25日に開催された大映スターズ対阪急ブレーブスのダブルヘッダーの観客数は、2リーグ制後のプロ野球公式戦の観客動員数最少記録とされる100人であったが実数は25人だったとする説もある。川崎球場ではこの他にも1966年(昭和41年)10月12日のサンケイアトムズ対中日ドラゴンズのダブルヘッダーで、2試合とも観客100人を記録している。1リーグ制時代の最少記録は1937年(昭和12年)7月17日、洲崎球場で開催されたイーグルス対名古屋金鯱軍戦の90人とされている。 1955年(昭和30年)からは大洋ホエールズも川崎をフランチャイズとし、セ・パ計2球団が川崎に本拠地を置くことになった。しかし、高橋ユニオンズが経営悪化により1956年(昭和31年)オフに大映スターズとの合併によって消滅したため、2球団が川崎に本拠地を置いた期間はわずか2シーズンで終わっている。7月28日、開場記念の試合で敗戦投手となったヴィクトル・スタルヒンが近鉄パールス戦で日本プロ球界史上初の300勝を達成した。当初は9月4日の対大映戦で達成したとされたが、その後、公式記録を訂正したため300勝目は川崎での記録となった(詳細はスタルヒンの来歴の項を参照)。 1955年(昭和30年)に初のプロレス興行として力道山の日本プロレスによる「夏の国際大試合」を開催した。
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