開塾・福井藩出仕とは? わかりやすく解説

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開塾・福井藩出仕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:44 UTC 版)

横井小楠」の記事における「開塾・福井藩出仕」の解説

天保14年1843年)、自宅一室私塾(のち弘化4年1847年)に「小堂」と命名)を開く。小第一門弟徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰蘆花父親である。第二門弟矢嶋源助であり、のちに嘉悦氏房長野濬平(長野忠次の父)、河瀬典次、安場保和竹崎次郎竹崎堂、竹崎順子の夫)など多く門弟輩出する。 嘉永2年1849年)、福井藩士・三寺三作が小堂に学び、これにより小の名が福井藩伝わり、のちに福井藩出仕するきっかけとなる。さらに嘉永5年1852年)には、福井藩求めに応じて学校問答書』を、翌嘉永6年1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月ロシア軍艦に乗ろうとして長崎向かっていた吉田松陰が小堂に立ち寄り、小3日間話し合った同年11月ロシア使節応接川路聖謨に「夷応接大意」を送り有道無道わかたずいっさい外国要求拒絶することは天地公共実理反すると説く安政元年1854年7月、兄・時明が48歳病死した。兄の長男左平太はまだ10歳幼少だったため、小が兄の末期養子として家督継いだこの頃考え方対立により長岡絶交することとなった安政2年1855年5月農村沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居し自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけ自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とする。坂本龍馬井上毅由利公正元田永孚など、明治維新立役者や後の明治新政府中枢の多くが後にここを訪問している。 安政4年1857年3月福井藩主・松平春嶽使者として村田氏寿が小の元を訪れ福井招聘される。小がそれを内諾したため、春嶽は8月熊本藩主細川斉護書状送り、小福井行き願い出た。斉護は実学党による藩校学風批判などから一旦それを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した後にようやく承諾された。小は翌安政5年1858年3月福井に赴き、賓師として50扶持待遇与えられ藩校明道館講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本帰郷。翌安政6年1859年)に再度福井藩から招き受けて福井滞在同年12月実母危篤との知らせが来たため熊本帰郷万延元年1860年2月福井藩による3回目招きにより福井に再び赴くこの頃福井藩内では、保守進歩の両派が対立していたため、これを見たは『国是三論』を著し、挙藩一致呼びかけた。文久元年1861年4月江戸に赴き、春嶽と初対面する。この江戸滞在中、勝海舟大久保忠寛交流持った同年10月、7人の福井書生連れ熊本沼山津帰る。しかし11月26日狩猟出掛けた際、藩主専用鷹狩の場所となっていた沼山津沼沢地において、残った弾を射ち放したことを咎められ謹慎処分となった(榜示犯禁事件)。 文久2年1862年6月福井藩から4回目招き受けて熊本を発つ。7月江戸越前松平家別邸訪れ江戸幕府政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革関わり幕府への建白書として『国是七条』を起草した8月大目付岡部長常招かれ、『国是七条』の内容について説明行い一橋徳川家邸では徳川慶喜対面し幕政について意見述べたこの頃坂本龍馬岡本健三郎福井藩邸で会った同年12月19日熊本藩江戸留守居役吉田平之助の別邸訪れ熊本藩士の都築四郎谷内允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤左衛門)の襲撃受けた。不意のことであったため小床の間置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎常盤橋福井藩邸まで戻り予備大小持って吉田別邸まで戻ったが、既に刺客の姿はなく、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年1863年8月まで福井滞在する熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し一人脱出した」という小行動武士あるまじき振る舞い士道忘却)であるとして非難され、小処分沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小襲われたのは、単に武士道欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取り戻ったのは当然であると小擁護した同年12月16日寛大な処置として切腹免れたものの、小対し知行150石)召上・士席差放の処分下され、小浪人となった元治元年1864年2月龍馬勝海舟遣い熊本の小訪ねている。小は『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬同席している[要出典]。この際、小は兄の遺子自身の甥にあたる左平太と太平神戸海軍操練所入所できるよう、龍馬通じて海舟に依頼したその後慶応元年1865年5月にも龍馬が小訪ねてきているが、第二次長州征討話題となった時、小長州藩非があるため征討正当だ主張し龍馬口論になったという(これ以後、小龍馬は会うことがなかった)。 慶応2年1866年)、甥の左平太・太平がアメリカ留学する際に『送別の語』を贈った慶応3年1867年12月18日長岡護美と小に、朝廷から新政府登用したいので上京するように通知する書状京都熊本藩邸に送られる。藩内では小登用異論多く家禄召し上げ・士席剥奪の状態であることもあって、「小病気なので辞退したい」と朝廷申し出ており、小門人登用についても断った慶応4年1868年3月5日参与となった長岡護美がその辞退申し出る書を副総裁岩倉具視提出したが、岩倉は小の事を高く評価していたため「心配に及ばない」と内示し、3月8日改めて小上京命令出された。熊本藩としてもこれではの上京を認めしかない決定し3月20日に小および都築兵衛都築四郎)の士席を回復し3月22日上京命じた4月11日大坂到着4月22日徴士参与任じられ、閏4月4日京都入り閏4月21日参与任じられる。翌22日には従四位下の位階与えられた。しかし激務から体調崩し5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月危険な状態脱し9月に再び出勤できるまでに回復した

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