開墾の奨励
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 10:21 UTC 版)
奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていた。 7世紀後半から8世紀初頭にかけて、国家主導の耕地開発が大規模に行われた。この土地が班田収授制に基づき平等に分配されたことにより、日本の人口は増加した。しかし、8世紀初頭に国家主導の耕地開発は限界を迎え、さらに律令制においては開墾した土地の世襲制度がなかったため、農民に新たに土地を開発するインセンティブが存在しなかったため、次第に口分田が不足するようになった。 そこで、722年に長屋王の政権により「百万町歩開墾計画」が策定された。この計画では、国司及び郡司に対して農民に食料と農具を支給して10日間開墾作業に従事させるように命ずるとともに、荒地を開墾して一定以上の収穫をあげたものに対する報償(勲位や位階)を定めるなどして、百万町の良田の開墾を目指した。しかし、当時の日本の耕地の総面積が89万町歩であったことからも100万町歩というのはあまりに広大であり、農民の労役が10日間と極めて短く、報償が勲位や位階であったことなどから、この計画は非現実的なものであった。 したがって、「百万町歩開墾計画」はすぐに立ち消えになり、翌年(723年)にはより現実的な開墾奨励策として三世一身法が発布された。三世一身法では、新たに池や用水路を設けて開墾した田地については三代(本人、子、孫もしくは子、孫、ひ孫)の所有、古い用水路や池を利用して開墾した田地については一代限りの所有を認め、期限付きではあるが開墾農地(墾田)の私有が認められた。ただし輸租田であることは変わらず、収穫の中から田租を納入する義務があった[要出典]。 三世一身法の発布により、各地で郡司や官人、寺院、有力農民などによる開墾が行われることとなった。この三世一身法が律令制(公地公民制、公地主義)崩壊の端緒とされる。しかし一方で、期限が到来するとせっかくの墾田も収公されてしまうため期限が近づくと耕作意欲が失われて田地は荒れてしまうという問題もあり、効果は限定的であった。
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