開塾の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:49 UTC 版)
「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「開塾の準備」の解説
1921年(大正10年)11月、トクヨは東京府豊多摩郡代々幡町代々木山谷425番地(現・渋谷区代々木三・四丁目付近)に40坪(≒132 m2)余の庭園付きの50畳の邸宅を月100円で借り受けた。当時の代々木はまだ人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには代々木練兵場(ワシントンハイツを経て代々木公園となる)があった。トクヨはより良い場所を探りつつ、これを塾舎とすべく住み込みで準備を進め、結局ほかの場所が見つからなかったため、ここを塾舎とすることを決断した。この頃、仮の塾名を日本女子体操学校としていた。 1922年(大正11年)2月1日、トクヨは次のような塾の規則(入塾規定)を発表した。この時、塾名を「二階堂体操塾」と定めた。 入学試験なし(入塾1か月後に本入学試験) 学力は女子師範学校・高等女学校卒業程度 身体強健、体操の資質が良い者 年齢20歳前後 人事上の身分は単純(未婚) 修業年限は1年 通学は不可(全寮制) 食費は15 - 20円 月謝は3円 書籍・体操服の新調は不要 小遣い費は任意 指導教科は体育が主 卒業しても無資格 卒業後は中等教員に就職 以上の条件の下で、定員22人で募集をかけたところ、約4倍の応募が殺到し、トクヨは嬉しい悲鳴を上げた。一方で条件に合わない人からの応募も多く、『わがちから』で「困ったものです」と題して学力や年齢が条件に合わない人に諦めるように訴え、条件に合うものの選外となった人には、東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育短期大学・東京女子体育大学)・日本體育會體操學校女子部(現・日本体育大学)・東京女高師(現・お茶の水女子大学)の受験を勧めた。結局、トクヨは定員の2倍に当たる40数人に入学許可を与えたため施設が不足し、塾舎の隣家を月40円で借用し、2棟を新築した。体育研究所設立のために集めていた募金は3,800円、新築・改修にかかった費用は3,500円だったので、残った300円は風呂桶・風呂釜の購入に充当した。 開塾準備を進めていく中で、トクヨは規則の見直しを余儀なくされた。目玉であった仮入学・本入学試験制度は、KPTCで採用していた制度であり、必須のものと考えていたにもかかわらず、塾の財政が火の車で、本入学できなかった生徒に入学納付金20円(願書料5円+入学金15円)を返還する約束を果たせそうにないため、取りやめることにした。次に、月謝を予定の3円から5円に値上げした。その理由を不足する備品の購入費に充てるとトクヨは説明し、これ以上は迷惑をかけないと『わがちから』で訴えた。また入学納付金20円の使途は体操器具の購入費に充てると説明した。
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