開場後の沿革
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安売りの効果もあり開場直後は開始大入りで、春木座にならい年中無休とするほどであったが、9月ごろから客足が悪くなり、17日間の興行を12日間に短縮した。 また、1892年4月10日に神田で発生した火事により休業したが、同月14日から20日まで慈善公演を行なった。 明治期、女性俳優を前面に出して隆盛した三崎座であったが、明治末年には一時衰退する。女性俳優による女芝居に替わって新派にも舞台を提供したものの、衰退には歯止めがかからず、1914年(大正3年)には歌舞伎上演が行われるようになった。1915年(大正4年)11月、三崎座は株式会社化されて名称も神田劇場と改名され、青江俊蔵を支配人として再建が図られた。青江は新派の重鎮、中野信近を一座に迎え、女性俳優陣として中村歌扇、中村歌江を中心として舞台を打った。中村歌扇、中村歌江は人気を博し、神田劇場は三崎座の伝統を引き継ぎ、女性による芝居で再び隆盛を迎えた。しかし同僚の中村歌江が亡くなったことによって歌扇も1921年(大正10年)には引退した。その後は支配人青木は旧派の小芝居の再興を図り、上演を続けて比較的安定した経営を続けていた。 1923年(大正12年)1月、神田劇場は松竹の直営劇場となり、松竹の映画上映も試みられたが同年9月1日に関東大震災の火災によって焼失する。翌1924年(大正13年)3月、松竹によって劇場は再興されたが、1925年(大正14年)3月、松竹は神田劇場の経営から離れた。 1926年には、神田座が三崎座を偲び女性のみの興行を行なった。久しく映画館として興行を行なっていたが、1930年に芝居を復活させた。 1945年(昭和20年)4月、戦災により焼失し、その後再建されなかった 。
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