開場までの経緯とは? わかりやすく解説

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開場までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:08 UTC 版)

富山飛行場」の記事における「開場までの経緯」の解説

富山県における近代航空史は、1913年大正2年7月20日富山練兵場において開催され奈良原式飛行大会における第5号の低空飛行始まり1916年大正5年5月15日には米国人アート・スミス宙返り飛行演じて耳目を驚かせその後1917年大正6年8月14日には帝国飛行協会後藤正雄によって北陸県連大飛が行われ、本格的航空時代幕を開けた一方日本においては第一次世界大戦以来欧州における航空事業発達鑑み政府においてもこれを奨励するの声が上って1929年昭和4年4月1日には東京 - 大阪 - 福岡間に初め郵便物及び貨物係る逓信省指定定期内国航空路日本航空輸送によって開設し同年7月15日からは同航空路において旅客取扱開始したこのように漸次定期航空路発達をみる中、1931年昭和6年5月15日からは東京 - 新潟線開通したが、これに刺戟受けた富山商工会議所は同年5月19日小泉又次郎逓信大臣に対して東京 - 新潟間の路線富山にまで延長することを建議している。 満州事変以降愛国的思潮昂揚により、1932年昭和7年1月4日富山県知事鈴木敬一県民に対して軍用飛行機一台献納」する旨を発表し、これをうけて数か月10万円を突破する献金県民から集まり同年3月10日には陸軍省に対してその献納機「立山号」を註文した当時上新川郡浜黒崎村建設されていた富山競馬場は、将来的飛行場として利用されることを見越して設計されていたため、立山号の離着陸地として同村内定し同年4月23日にはいよいよ立山号は県民大歓迎の裡に浜黒崎村着陸した一方立山号の献納のために徴募され献金は、20515円の残金があり、将来有事のために十二銀行預けられていたが、その献金利用して富山県飛行場建設しようという声が上った当初はその建設予定地として浜黒崎村挙げられ南弘逓信大臣による富山競馬場視察行われたが、その後1932年昭和7年8月に、富山県当局飛行場建設地として将来的拡張するための土地確保できる上新川郡東岩瀬町や同郡大広田村の方が有望であるとの方針示した。しかし、当の東岩瀬町大広田村住民10万坪もの水田買収されることに不満を示しており、飛行場設置には消極であったこの後同年9月22日婦負郡草島村飛行場誘致富山県に対して請願し上新川郡大沢野村笹津日本電力所有地が県当局内において飛行場建設候補地挙げられるなど、飛行場建設候補地選定遅々として進まなかったので、富山県逓信省山田航空官に候補地調査依頼した結果同年10月3日に同航空官より浜黒崎村及び倉垣村の2ヶ所が適当であるという報告が行われた。富山県においては更に選定慎重を期するため、陸軍省国防見地からの選定依頼したところ、射水郡老田村が適当であるとの報告受けた。これらの報告によって浜黒崎村倉垣村及び老田村いずれか飛行場建設候補地とすべく選定作業が行われ、同年11月1日建設委員会特別委員会において斎藤樹富山県知事建設地婦負郡倉垣村としたことを報告した倉垣村飛行場建設に際して有利であるとされたのは、十分な面積確保でき、周囲障碍物がなく、土地平坦であり、一帯が全く水田であったため撤去工事煩雑さが省けたのに加え越中鉄道による交通利便性期待できたためであった建設に際して前述立山号の残金のほか、遠山信一郎富山県学務部長奔走によって帝国飛行協会より1000円、旧加賀藩主前田侯爵家より500円寄附金、更に富山県民より集めた寄附金宛てた。これによって倉垣村内の8坪を1坪あたり1円30銭で買収し1933年昭和8年5月9日より建設着手同年10月8日富山飛行場として開場した1917年大正6年8月14日行われた北陸県連大飛行を報ずる新聞 浜黒崎村着陸した立山当初飛行場建設予定地であった富山競馬場 富山飛行場建設発起人一部。右から高田甚四郎富山商工会議所副会頭大間知円兵衛富山商工会議所理事遠山信一郎富山県学務部長大野清富山タイムス事業部長寺田忠蔵富山県書記 富山飛行場開場報ずる当時新聞 開場式の様子

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開場までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 06:46 UTC 版)

札幌ドーム」の記事における「開場までの経緯」の解説

札幌市には以前から、東札幌現在の札幌コンベンションセンター一帯)にドーム球場・「ホワイトドーム仮称)」の建設構想があった。だが、政治汚職事件で逮捕者が出たことによる資金的問題からこの構想一時立ち消えになっていた。 1992年平成4年7月札幌市2002 FIFAワールドカップ開催候補地として名乗り挙げると、新たに建設するサッカースタジアムホワイトドーム構想リンクさせる案が浮上し1996年平成8年1月にはサッカーだけでなく野球など多目的に利用できるドームスタジアムとすることが正式に決定したサッカー専用競技場として建設した場合赤字必至だったため試合数の多いプロ野球球団誘致札幌ドーム建設前提とされた。 1997年平成9年)の設計コンペには9つグループ参加し東京大学名誉教授建築家原広司らのグループ提案したサッカー用天然芝空気圧浮上するステージ乗せてドーム出し入れする「ホヴァリング・ステージ」方式採用された。農林水産省北海道農業試験場甜菜試験農場跡地1998年平成10年6月着工し10月株式会社札幌ドーム設立した1999年平成11年)に札幌ドーム愛称公募し応募総数7,722通、4,966作品の中から「HIROBA(ひろば)」が選ばれた。誰でも知っている言葉で、野球・サッカー・コンサートなど多目的に利用できるドーム機能端的に表していることなどから採用された。しかし、札幌市民や北海道民の間では「ドームと言えば通じる事などから定着していない。 2001年平成13年5月完成し、総事業費は約537億円である。同年6月2日開場した6月3日には司会徳光和夫出演者として札幌出身シンガーソングライター大黒摩季らを招いたオープニング記念イベント開催された。

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