開場までの経緯
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富山県における近代航空史は、1913年(大正2年)7月20日、富山練兵場において開催された奈良原式飛行大会における第5鳳号の低空飛行に始まり、1916年(大正5年)5月15日には米国人アート・スミスが宙返り飛行を演じて耳目を驚かせ、その後1917年(大正6年)8月14日には帝国飛行協会後藤正雄によって北陸三県連絡大飛行が行われ、本格的航空時代の幕を開けた。一方、日本においては第一次世界大戦以来の欧州における航空事業の発達に鑑み、政府においてもこれを奨励するの声が上って、1929年(昭和4年)4月1日には東京 - 大阪 - 福岡間に初めて郵便物及び貨物に係る逓信省指定の定期内国航空路を日本航空輸送によって開設し、同年7月15日からは同航空路において旅客の取扱を開始した。このように漸次定期航空路の発達をみる中、1931年(昭和6年)5月15日からは東京 - 新潟線が開通したが、これに刺戟を受けた富山商工会議所は同年5月19日に小泉又次郎逓信大臣に対して東京 - 新潟間の路線を富山にまで延長することを建議している。 満州事変以降の愛国的思潮の昂揚により、1932年(昭和7年)1月4日に富山県知事鈴木敬一は県民に対して「軍用飛行機一台ヲ献納」する旨を発表し、これをうけて数か月で10万円を突破する献金が県民から集まり、同年3月10日には陸軍省に対してその献納機「立山号」を註文した。当時、上新川郡浜黒崎村に建設されていた富山競馬場は、将来的に飛行場として利用されることを見越して設計されていたため、立山号の離着陸地として同村が内定し、同年4月23日にはいよいよ立山号は県民大歓迎の裡に浜黒崎村に着陸した。一方、立山号の献納のために徴募された献金は、20515円の残金があり、将来の有事のために十二銀行に預けられていたが、その献金を利用して富山県に飛行場を建設しようという声が上った。 当初はその建設予定地として浜黒崎村が挙げられ、南弘逓信大臣による富山競馬場の視察も行われたが、その後1932年(昭和7年)8月に、富山県当局は飛行場建設地として将来的に拡張するための土地を確保できる上新川郡東岩瀬町や同郡大広田村の方が有望であるとの方針を示した。しかし、当の東岩瀬町や大広田村の住民は10万坪もの水田を買収されることに不満を示しており、飛行場の設置には消極的であった。この後も同年9月22日に婦負郡草島村が飛行場誘致を富山県に対して請願し、上新川郡大沢野村笹津の日本電力所有地が県当局内において飛行場建設候補地に挙げられるなど、飛行場建設候補地の選定は遅々として進まなかったので、富山県が逓信省の山田航空官に候補地調査を依頼した結果、同年10月3日に同航空官より浜黒崎村及び倉垣村の2ヶ所が適当であるという報告が行われた。富山県においては更に選定に慎重を期するため、陸軍省に国防的見地からの選定を依頼したところ、射水郡老田村が適当であるとの報告を受けた。これらの報告によって浜黒崎村、倉垣村及び老田村のいずれかを飛行場建設候補地とすべく選定作業が行われ、同年11月1日に建設委員会特別委員会において斎藤樹富山県知事は建設地を婦負郡倉垣村としたことを報告した。倉垣村が飛行場建設に際して有利であるとされたのは、十分な面積を確保でき、周囲に障碍物がなく、土地が平坦であり、一帯が全く水田であったため撤去工事の煩雑さが省けたのに加え、越中鉄道による交通の利便性が期待できたためであった。 建設に際しては前述の立山号の残金のほか、遠山信一郎富山県学務部長の奔走によって帝国飛行協会より1000円、旧加賀藩主前田侯爵家より500円の寄附金、更に富山県民より集めた寄附金を宛てた。これによって倉垣村内の8万坪を1坪あたり1円30銭で買収し、1933年(昭和8年)5月9日より建設に着手、同年10月8日に富山飛行場として開場した。 1917年(大正6年)8月14日に行われた北陸三県連絡大飛行を報ずる新聞 浜黒崎村に着陸した立山号 当初の飛行場建設予定地であった富山競馬場 富山飛行場建設発起人の一部。右から高田甚四郎富山商工会議所副会頭、大間知円兵衛富山商工会議所理事、遠山信一郎富山県学務部長、大野清正富山タイムス事業部長、寺田忠蔵富山県書記 富山飛行場の開場を報ずる当時の新聞 開場式の様子
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開場までの経緯
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札幌市には以前から、東札幌(現在の札幌コンベンションセンター一帯)にドーム球場・「ホワイトドーム(仮称)」の建設構想があった。だが、政治汚職事件で逮捕者が出たことによる資金的な問題からこの構想は一時立ち消えになっていた。 1992年(平成4年)7月、札幌市が2002 FIFAワールドカップの開催候補地として名乗りを挙げると、新たに建設するサッカースタジアムをホワイトドーム構想とリンクさせる案が浮上し、1996年(平成8年)1月にはサッカーだけでなく野球など多目的に利用できるドームスタジアムとすることが正式に決定した。サッカー専用競技場として建設した場合、赤字は必至だったため試合数の多いプロ野球球団の誘致が札幌ドーム建設の前提とされた。 1997年(平成9年)の設計コンペには9つのグループが参加し、東京大学名誉教授の建築家原広司らのグループが提案したサッカー用の天然芝を空気圧で浮上するステージに乗せてドームに出し入れする「ホヴァリング・ステージ」方式が採用された。農林水産省北海道農業試験場・甜菜試験農場の跡地で1998年(平成10年)6月に着工し、10月に株式会社札幌ドームを設立した。 1999年(平成11年)に札幌ドームの愛称を公募し、応募総数7,722通、4,966作品の中から「HIROBA(ひろば)」が選ばれた。誰でも知っている言葉で、野球・サッカー・コンサートなど多目的に利用できるドームの機能を端的に表していることなどから採用された。しかし、札幌市民や北海道民の間では「ドーム」と言えば通じる事などから定着していない。 2001年(平成13年)5月に完成し、総事業費は約537億円である。同年6月2日に開場した。6月3日には司会に徳光和夫、出演者として札幌出身のシンガーソングライターの大黒摩季らを招いたオープニングの記念イベントが開催された。
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