劇場の経営とは? わかりやすく解説

劇場の経営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:00 UTC 版)

川上座」の記事における「劇場の経営」の解説

1896年明治29年7月川上座開場し、「日本娘」を上演したこけら落とし大入りだった。開場した1896年明治29年7月末には、明治三陸地震津波被災者対す義援公演なども行われた。しかし劇場の経営は火の車であった。まず問題となったのが当時の他の劇場よりも川上座規模小さく収容人数少なかったことが挙げられる営業収益伸び悩み総工費25,000円が川上借金として残り利子支払いにも困窮するようになった早くもオープンした同年1896年12月7日には競売付され地主から地代滞っているため劇場取り壊す提訴された。結局川上1897年明治30年)に株式会社発起認可得て川上座改良演劇株式会社の名称で劇場株式会社組織変え債権者への返金進めながら劇場経営継続することを提案して示談成立した。しかしその後経営状態思わしくなく、川上1898年明治31年)に所有権手放すことになった演劇改良運動一環として、塲代(切符)を劇場から直接購入した場合には半額茶屋手数料取らないこととし当時慣行である芸娼妓から引幕をもらう習慣をやめ、茶屋出方祝儀全廃するなど当時としては斬新な独自性のある取り組み行なっていた。その一方で茶屋からは株金をとる、出方無報酬働かせるなど、経営手法一貫していなかった。 演目上流階級女性新たな観客層にする等の様々な演劇改良試みるが、それらが不振終わったことや手打ち興行ばかりであったことも影響し収益悪化前述のように開場同年1896年12月7日頃、開場当時から多額借金抱えていた川上座競売かけられることになる。自伝に「漸く苦心芝居小屋だけは出来たけれども、はじめから理なことは分かり切つて居るのだから、此先維持法に就てはどうなり行くか豫め計り知られない事故」とあり、川上最初から誰かの手に渡ることを予期していた可能性がある。 結局1898年明治31年)に川上の手から大口債権者であった銀行員山崎兵衛川上座所有権移転する山崎経営が困難となっていた川上座融資続けていて、実質的に山崎融資で何とか興行打て状況であった所有権山崎の手移った後もしばらくの間川上座の名称は変更されず、他の興行師賃貸する形で興行続けていたが、1901年明治34年1月改良座改名し所有者山崎兵衛座主としてその後新派演劇興行継続していた。 1903年明治36年4月6日早朝改良座2階楽屋出火元とした火事発生し全焼する。火災発生前日である4月5日は、3月20日初日とした昼夜二部制の公演千秋楽であり、千秋楽公演終了した後、公演関係者早々に劇場を後にしてからの出火であるため、公演関係者タバコ不始末による失火ではないか取り沙汰された。改良座焼失後、再興されることは無かった

※この「劇場の経営」の解説は、「川上座」の解説の一部です。
「劇場の経営」を含む「川上座」の記事については、「川上座」の概要を参照ください。

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