劇場の経営
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1896年(明治29年)7月、川上座が開場し、「日本娘」を上演したこけら落としは大入りだった。開場した1896年(明治29年)7月末には、明治三陸地震の津波被災者に対する義援公演なども行われた。しかし劇場の経営は火の車であった。まず問題となったのが当時の他の劇場よりも川上座の規模が小さく、収容人数が少なかったことが挙げられる。営業収益は伸び悩み、総工費25,000円が川上の借金として残り、利子の支払いにも困窮するようになった。早くもオープンした同年の1896年12月7日には競売に付され、地主から地代も滞っているため劇場を取り壊すと提訴された。結局川上は1897年(明治30年)に株式会社発起認可を得て、川上座は改良演劇株式会社の名称で劇場を株式会社組織に変え、債権者への返金を進めながら劇場経営を継続することを提案して示談が成立した。しかしその後も経営状態は思わしくなく、川上は1898年(明治31年)に所有権を手放すことになった。 演劇改良運動の一環として、塲代(切符)を劇場から直接購入した場合には半額、茶屋手数料は取らないこととし、当時の慣行である芸娼妓から引幕をもらう習慣をやめ、茶屋や出方の祝儀を全廃するなど当時としては斬新な独自性のある取り組みを行なっていた。その一方で茶屋からは株金をとる、出方は無報酬で働かせるなど、経営手法は一貫していなかった。 演目も上流階級の女性を新たな観客層にする等の様々な演劇改良を試みるが、それらが不振に終わったことや手打ち興行ばかりであったことも影響し、収益が悪化。前述のように開場と同年の1896年12月7日頃、開場当時から多額の借金を抱えていた川上座は競売にかけられることになる。自伝に「漸くの苦心で芝居小屋だけは出来たけれども、はじめから無理なことは分かり切つて居るのだから、此先の維持法に就てはどうなり行くか豫め計り知られない事故」とあり、川上は最初から誰かの手に渡ることを予期していた可能性がある。 結局、1898年(明治31年)に川上の手から大口債権者であった銀行員の山崎武兵衛に川上座の所有権は移転する。山崎は経営が困難となっていた川上座に融資を続けていて、実質的には山崎の融資で何とか興行を打てる状況であった。所有権が山崎の手に移った後もしばらくの間は川上座の名称は変更されず、他の興行師に賃貸する形で興行を続けていたが、1901年(明治34年)1月に改良座と改名し、所有者の山崎武兵衛を座主としてその後も新派の演劇興行を継続していた。 1903年(明治36年)4月6日早朝、改良座は2階の楽屋を出火元とした火事が発生し全焼する。火災発生の前日である4月5日は、3月20日を初日とした昼夜二部制の公演の千秋楽であり、千秋楽公演が終了した後、公演関係者が早々に劇場を後にしてからの出火であるため、公演関係者のタバコの不始末による失火ではないかと取り沙汰された。改良座は焼失後、再興されることは無かった。
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