劇場経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:29 UTC 版)
1879年新富座の経営者・十二代目守田勘弥が訴訟を起こした際、被告側弁護人として調停に務め、その後、守田の法律顧問になったことが歌舞伎界に関わるきっかけになった。また、五代目尾上菊五郎と親交が深く、1886年菊五郎が千歳座に移った際、経営に関わり、『四千両小判梅葉』などの作品の製作にも関係する。 1889年11月、福地桜痴・千葉勝五郎が歌舞伎座を開業して以降、興行主任などの名義で経営に関わるようになり、株式会社化(1896年)の際にも奔走した。その後、一時歌舞伎座とは縁を切るが、団十郎・菊五郎亡き後、再び経営に関わり(1904年)、松竹に経営権が渡るまでの約10年間は実質的に田村が経営の中心であった。 1908年以降市村座の経営権を得て、1913年、歌舞伎座の経営を松竹に譲った後、田村は市村座に専念することになった。 市村座では若手の六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門らを抜擢して育て、人気を博した。歌舞伎座や帝国劇場を向こうに回し、いわゆる「菊吉時代」「二長町時代」を築いた。 腎臓炎のため1920年死去。市村座は田村の死後、子の田村寿二郎(成義を大田村、寿二郎を小田村と呼んだ)が経営に当たったが、吉右衛門、七代目坂東三津五郎らが相次いで脱退したため、次第に衰退していった(一時期、市村座は松竹経営になったが1932年に焼失し、再建されなかった)。
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