市川館の時代とは? わかりやすく解説

市川館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:38 UTC 版)

本八幡ハタシネマ」の記事における「市川館の時代」の解説

1924年大正13年前後時期国鉄現在のJR東日本総武本線市川駅北口千葉街道沿いに西へ1キロメートルほど離れた市川橋のたもと、千葉県東葛飾郡市川町二丁目現在の同県市川市市川3丁目231号)に市川館として開館した。同館は、同町内(同市内)では三松館(のちの市川オークラ劇場経営村瀬虎雄大字三本松現在の市川1丁目6番19号) についで2番目にできた映画常設館であり、当初経営者中村八十吉であった。同館の興行系統松竹キネマであり、三松館が日活および東亜キネマ作品興行していたが、町内市内)での棲み分けが行われていた。昭和に入ると、同館が松竹キネマおよび帝国キネマ演芸三松館が日活およびマキノ・プロダクション作品それぞれ上映するようになっていた。 1929年昭和4年)には同館の経営者島崎國平代り、また同年春日会館春日館、のちの市川東宝映画劇場経営株式会社春日会館新田165番地現在の新田5丁目1番3号)が開館して松竹キネマ上映するうになると、同館がマキノ・プロダクション三松館が日活および洋画外国映画作品それぞれ上映するように変わっている1934年昭和9年11月3日市制敷かれ市川町市川市になり、映画界にはトーキーの時代が来た。三松館での1935年昭和10年)のストライキ有名だが、同館については特に伝えられていない1940年昭和15年前後には、経営が簱栄吉簱興行)に代り、館名も市川映画館改称していた。1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版によれば同館の興行系統については記述されていない。簱栄吉は、1928年昭和3年)に設立され簱興行株式会社の代表であり、戦後同社取締役会長まで務めた人物である。同館の当時観客定員数は438であった。この当時は、三松館は市川東宝三松館になり経営奥沢唯一郎に代り春日会館市川松竹館になり経営臼井荘一千葉興行)に代っていた。簱興行このころ東京市内の品川区五反田五反田劇場同じく豊島区池袋町に池袋日勝映画館(のちの池袋日勝映画劇場)、江戸川区小岩町小岩松竹館(のちの小岩映画劇場)、同区小松川小松川電気館城東区現在の江東区亀戸町亀戸映画劇場(のちの亀戸日勝映画劇場)、あるいは神奈川県横浜市中区現在の南区)に中島常設館、といった合計10館の映画館経営していた。 2013年平成25年)現在、同館の跡地一般住宅地である。

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