市川館の時代
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1924年(大正13年)前後の時期、国鉄(現在のJR東日本)総武本線の市川駅北口を千葉街道沿いに西へ1キロメートルほど離れた市川橋のたもと、千葉県東葛飾郡市川町二丁目(現在の同県市川市市川3丁目23番1号)に市川館として開館した。同館は、同町内(同市内)では三松館(のちの市川オークラ劇場、経営・村瀬虎雄、大字三本松、現在の市川1丁目6番19号) についで2番目にできた映画常設館であり、当初の経営者は中村八十吉であった。同館の興行系統は松竹キネマであり、三松館が日活および東亜キネマの作品を興行していたが、町内(市内)での棲み分けが行われていた。昭和に入ると、同館が松竹キネマおよび帝国キネマ演芸、三松館が日活およびマキノ・プロダクションの作品をそれぞれ上映するようになっていた。 1929年(昭和4年)には同館の経営者は島崎國平に代り、また同年、春日会館(春日館、のちの市川東宝映画劇場、経営・株式会社春日会館、新田165番地、現在の新田5丁目1番3号)が開館して松竹キネマを上映するようになると、同館がマキノ・プロダクション、三松館が日活および洋画(外国映画)作品をそれぞれ上映するように変わっている。1934年(昭和9年)11月3日、市制が敷かれ市川町は市川市になり、映画界にはトーキーの時代が来た。三松館での1935年(昭和10年)のストライキは有名だが、同館については特に伝えられていない。 1940年(昭和15年)前後には、経営が簱栄吉(簱興行)に代り、館名も市川映画館と改称していた。1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』によれば同館の興行系統については記述されていない。簱栄吉は、1928年(昭和3年)に設立された簱興行株式会社の代表であり、戦後は同社の取締役会長まで務めた人物である。同館の当時の観客定員数は438名であった。この当時は、三松館は市川東宝三松館になり経営も奥沢唯一郎に代り、春日会館も市川松竹館になり経営も臼井荘一(千葉興行)に代っていた。簱興行はこのころ、東京市内の品川区五反田に五反田劇場、同じく豊島区池袋町に池袋日勝映画館(のちの池袋日勝映画劇場)、江戸川区小岩町に小岩松竹館(のちの小岩映画劇場)、同区小松川に小松川電気館、城東区(現在の江東区)亀戸町に亀戸映画劇場(のちの亀戸日勝映画劇場)、あるいは神奈川県横浜市中区(現在の南区)に中島常設館、といった合計10館の映画館を経営していた。 2013年(平成25年)現在、同館の跡地は一般の住宅地である。
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