市川雷蔵と三島由紀夫とは? わかりやすく解説

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市川雷蔵と三島由紀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 01:29 UTC 版)

炎上 (映画)」の記事における「市川雷蔵と三島由紀夫」の解説

市川雷蔵は『炎上』の演技評価され男優賞など数々の賞も受賞した雷蔵はさらに俳優としての力量発揮し進歩させたい考えいたずらに興行的安全を狙った娯楽物だけではなくて演技やり甲斐のある芸術性買われる作品」に出演する心構え強固になった。 実際犯罪事件芸術作品にまで高め、「主人公溝口の美への憧憬疎外感難解な観念、そして金閣寺放火赴く心理」を一人称独白紡ぎ出す三島文章読みながら、演技練っていた雷蔵の「役者魂」に火がつき、表現者として大い感化されたのではないか大西望は考察し山内由紀人も、三島作品俳優として成長した雷蔵が、その後三島作品出演を望むのは自然なことと解説している。 『炎上主演以来雷蔵プロデューサー藤井浩明とも懇意となり、新し映画演劇について熱く語り三島1961年昭和36年)に発表した小説獣の戯れ』の映画化企画し作品にも出演することを熱望した。しかし、雷蔵自ら演出川島雄三監督依頼する計画をしていた矢先に、川島雄三が突然亡くなってしまった。 『炎上』での市川雷蔵演技惚れ込んだ三島由紀夫は、1964年昭和39年)に『勧進帳』の舞台に立つ歌舞伎役者として雷蔵を「雷蔵丈」と呼んで敬意表し今後俳優人生期待をかけていた。 君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した市川崑監督としても、すばらし仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んださういふとき、作家仕事俳優仕事境地において何ら変るところがない。 — 三島由紀夫雷蔵丈のこと」 雷蔵多忙の中、三島小説『剣』が1963年昭和38年10月発表されるやいなや映画化を自ら企画し主演もした。藤井浩明作風的に映画化には向かない考え難色示したが、雷蔵は『剣』の映画化熱望した雷蔵1964年昭和39年)の年明けすぐに撮影準備入り1月4日三島参加している早朝午前4時からの学習院大学剣道部寒稽古見学し三島歓談した。 『剣』は原作発表からわずか5か月3月14日映画公開された。その時期の雷蔵は『眠狂四郎』や『忍びの者』の人気シリーズ活躍し大映スターとして多忙極めていたが、明けても暮れても同じパターン映画よりも、自分自身本当にやりたい作品リフレッシュしたかったのではないか藤井語っている。『剣』の脚本舟橋和郎であったが、その年の5月23日公開され映画獣の戯れ』の脚本舟橋担当したしかしながら雷蔵スケジュール多忙からか『獣の戯れ』の出演には至らなかった。 三島映画『剣』での雷蔵演技にも感銘し主人公国分次郎肝心な要素である「或るはかなさ」を十全表現していた雷蔵評価した雷蔵は『炎上』では「美」から疎外され人物、『剣』では対極的な、「美」そのもの人物好演したが、どちらも「反時代的青年」、印象的な微笑」を見せということでは共通し(『金閣寺』では「人生参与」することを諦めてから溝口は「微笑し出す)、それが三島文学登場する「〈美〉を象徴する人物」の特徴であった。 『炎上』の溝口では雷蔵を「この人上の適り役はない」と語った三島だが、『剣』の国分次郎でも雷蔵三島にとって適役であった。なお、三島自作の『憂国』を映画化して上映する時には雷蔵の『眠狂四郎』か、あるいは勝新太郎『座頭市』との2本立てにすることを望んだという。 その後雷蔵は病を患ううになるが、死の3か月前も病床闘病しながら三島長編春の雪』の舞台化構想し、「仕事がしたい……」と言っていた。『春の雪』の舞台企画雷蔵約束して病室を後にした藤井浩明プロデューサーだが、それが雷蔵顔を合わせた最後となった。『獣の戯れ』や『春の雪』以外にも雷蔵は、映画華岡青洲の妻』などで一緒に仕事をした増村保造監督二・二六事件青年将校の役もやりたい相談していたという。二・二六事件将校らは三島が『憂国』や『英霊の聲』で描いた重要なテーマであった大西望は、そんなふうに三島作品出演熱望した雷蔵について、「一人俳優が、これほど三島由紀夫作品映画化し主演したと言った例があるだろうか」と述べ三島自身雷蔵気に入っていた共鳴関係鑑みつつ、分野違っても「三島雷蔵追求していたもの似ていた」としている。そして三島文学登場する悲劇的な主人公たちの「微笑」を絶妙演じられる雷蔵表現力について考察している。 雷蔵は、俳優市川雷蔵」のアイデンティティーを反時代的美に求めてたように思う。それは、市川崑監督が「若いくせに妙にクラシックなところがあって、そのくせ強情なんですよ」と言ったように、雷蔵生来性質だったかもしれない。(中略雷蔵三島作品によって自己表現することが出来た自分思う存分表現出来作品恵まれなかった勝新太郎比べると、雷蔵俳優人生にとって三島作品は、かけがえのない存在であっただろう。三島由紀夫描き市川雷蔵体現した時代的青年は、三島理想とした反時代的「美」象徴する人物でもある。三島はこういった青年を描くときに、共通した特徴持たせている。それが「微笑」である。(中略市川雷蔵という俳優自体生活臭がなく人生にも芸道にもストイックなところがあった。そこが「人生」よりも「美」を選ぶ三島作品主人公たちを表現できた所以だろう。(中略雷蔵が『奔馬』の勲を演じ機会がなかったのが悔やまれる雷蔵であれば三島文学の「微笑」の系譜作れたのではないだろうか。 — 大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画市川雷蔵――」 雷蔵病気入院している頃、三島勝新太郎からの強い要望で、映画人斬り』に出演することとなった大映京都撮影所に赴き、勝の部屋本読み打合せ終えて部屋出た藤井浩明三島は、目の前雷蔵部屋がひっそりとしているのを覗いて言葉もなかった。外に出ると三島はしばらくの沈黙の後、「帰京した雷蔵さんを見舞い行こう約束したけれど、あれは止めよう雷蔵君に会えば人斬り出演の話が出るだろう。それは病床に居る雷蔵君を悲しませることになるから…」と、雷蔵心の中慮ったという。 雷蔵の死の翌年1970年昭和45年11月三島事件起こり三島亡くなるが、その約2週間前「三島由紀夫展」が池袋東急百貨店開催され藤井その夜三島帰途を共にした。文京区小日向台雷蔵邸の灯が遠く見えて来ると、雷蔵の死を残念がっていた三島は、藤井次に雷蔵の本を出す機会があれば、編集引き受けと言ったという。すでにその時三島自死決意していたのを全く知らない藤井は、その言葉雷蔵自分への友情を示す別れの言葉とは気づかず、三島編集する雷蔵追悼豪華本を夢見ていた。

※この「市川雷蔵と三島由紀夫」の解説は、「炎上 (映画)」の解説の一部です。
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