市川雷蔵と三島由紀夫
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「炎上 (映画)」の記事における「市川雷蔵と三島由紀夫」の解説
市川雷蔵は『炎上』の演技が評価され、男優賞など数々の賞も受賞した。雷蔵はさらに俳優としての力量を発揮し進歩させたいと考え、いたずらに興行的安全を狙った娯楽物だけではなくて「演技のやり甲斐のある芸術性を買われる作品」に出演する心構えが強固になった。 実際の犯罪事件を芸術作品にまで高め、「主人公溝口の美への憧憬と疎外感、難解な観念、そして金閣寺の放火に赴く心理」を一人称独白で紡ぎ出す三島の文章を読みながら、演技を練っていた雷蔵の「役者魂」に火がつき、表現者として大いに感化されたのではないかと大西望は考察し、山内由紀人も、三島作品で俳優として成長した雷蔵が、その後も三島作品の出演を望むのは自然なことと解説している。 『炎上』主演以来、雷蔵はプロデューサーの藤井浩明とも懇意となり、新しい映画や演劇について熱く語り、三島が1961年(昭和36年)に発表した小説『獣の戯れ』の映画化を企画し作品にも出演することを熱望した。しかし、雷蔵自ら演出を川島雄三監督に依頼する計画をしていた矢先に、川島雄三が突然亡くなってしまった。 『炎上』での市川雷蔵の演技に惚れ込んだ三島由紀夫は、1964年(昭和39年)に『勧進帳』の舞台に立つ歌舞伎役者としての雷蔵を「雷蔵丈」と呼んで敬意を表し、今後の俳優人生に期待をかけていた。 君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。さういふとき、作家の仕事も俳優の仕事も境地において何ら変るところがない。 — 三島由紀夫「雷蔵丈のこと」 雷蔵は多忙の中、三島の小説『剣』が1963年(昭和38年)10月に発表されるやいなや、映画化を自ら企画し主演もした。藤井浩明は作風的に映画化には向かないと考え難色を示したが、雷蔵は『剣』の映画化を熱望した。雷蔵は1964年(昭和39年)の年明けすぐに撮影準備に入り、1月4日、三島も参加している早朝午前4時からの学習院大学剣道部の寒稽古を見学し三島と歓談した。 『剣』は原作発表からわずか5か月の3月14日に映画公開された。その時期の雷蔵は『眠狂四郎』や『忍びの者』の人気シリーズで活躍し大映のスターとして多忙を極めていたが、明けても暮れても同じパターンの映画よりも、自分自身が本当にやりたい作品でリフレッシュしたかったのではないかと藤井は語っている。『剣』の脚本は舟橋和郎であったが、その年の5月23日に公開された映画『獣の戯れ』の脚本も舟橋が担当した。しかしながら雷蔵はスケジュール的多忙からか『獣の戯れ』の出演には至らなかった。 三島は映画『剣』での雷蔵の演技にも感銘し、主人公の国分次郎の肝心な要素である「或るはかなさ」を十全に表現していた雷蔵を評価した。雷蔵は『炎上』では「美」から疎外された人物、『剣』では対極的な、「美」そのものの人物を好演したが、どちらも「反時代的な青年」、印象的な「微笑」を見せるということでは共通し(『金閣寺』では「人生に参与」することを諦めてから溝口は「微笑」し出す)、それが三島文学に登場する「〈美〉を象徴する人物」の特徴であった。 『炎上』の溝口では雷蔵を「この人以上の適り役はない」と語った三島だが、『剣』の国分次郎でも雷蔵は三島にとって適役であった。なお、三島が自作の『憂国』を映画化して上映する時には、雷蔵の『眠狂四郎』か、あるいは勝新太郎の『座頭市』との2本立てにすることを望んだという。 その後、雷蔵は病を患うようになるが、死の3か月前も病床で闘病しながら三島の長編『春の雪』の舞台化を構想し、「仕事がしたい……」と言っていた。『春の雪』の舞台企画を雷蔵と約束して病室を後にした藤井浩明プロデューサーだが、それが雷蔵と顔を合わせた最後となった。『獣の戯れ』や『春の雪』以外にも雷蔵は、映画『華岡青洲の妻』などで一緒に仕事をした増村保造監督に二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという。二・二六事件の将校らは三島が『憂国』や『英霊の聲』で描いた重要なテーマであった。 大西望は、そんなふうに三島作品の出演を熱望した雷蔵について、「一人の俳優が、これほどに三島由紀夫作品を映画化し主演したいと言った例があるだろうか」と述べ、三島自身も雷蔵を気に入っていた共鳴関係を鑑みつつ、分野は違っても「三島と雷蔵の追求していたものが似ていた」としている。そして三島文学に登場する悲劇的な主人公たちの「微笑」を絶妙に演じられる雷蔵の表現力について考察している。 雷蔵は、俳優「市川雷蔵」のアイデンティティーを反時代的な美に求めていたように思う。それは、市川崑監督が「若いくせに妙にクラシックなところがあって、そのくせ強情なんですよ」と言ったように、雷蔵の生来の性質だったかもしれない。(中略)雷蔵は三島作品によって自己を表現することが出来た。自分を思う存分表現出来る作品に恵まれなかった勝新太郎に比べると、雷蔵の俳優人生にとって三島の作品は、かけがえのない存在であっただろう。三島由紀夫が描き、市川雷蔵が体現した反時代的な青年は、三島の理想とした反時代的な「美」を象徴する人物でもある。三島はこういった青年を描くときに、共通した特徴を持たせている。それが「微笑」である。(中略)市川雷蔵という俳優自体、生活臭がなく人生にも芸道にもストイックなところがあった。そこが「人生」よりも「美」を選ぶ三島作品の主人公たちを表現できた所以だろう。(中略)雷蔵が『奔馬』の勲を演じる機会がなかったのが悔やまれる。雷蔵であれば、三島文学の「微笑」の系譜を作れたのではないだろうか。 — 大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」 雷蔵が病気で入院している頃、三島は勝新太郎からの強い要望で、映画『人斬り』に出演することとなった。大映京都撮影所に赴き、勝の部屋で本読みの打合せを終えて部屋を出た藤井浩明と三島は、目の前の雷蔵の部屋がひっそりとしているのを覗いて、言葉もなかった。外に出ると三島はしばらくの沈黙の後、「帰京したら雷蔵さんを見舞いに行こうと約束したけれど、あれは止めよう。雷蔵君に会えば『人斬り』出演の話が出るだろう。それは病床に居る雷蔵君を悲しませることになるから…」と、雷蔵の心の中を慮ったという。 雷蔵の死の翌年1970年(昭和45年)11月に三島事件が起こり、三島も亡くなるが、その約2週間前「三島由紀夫展」が池袋の東急百貨店で開催され、藤井はその夜三島と帰途を共にした。文京区の小日向台の雷蔵邸の灯が遠くに見えて来ると、雷蔵の死を残念がっていた三島は、藤井が次に雷蔵の本を出す機会があれば、編集を引き受けると言ったという。すでにその時三島が自死を決意していたのを全く知らない藤井は、その言葉が雷蔵と自分への友情を示す別れの言葉とは気づかず、三島が編集する雷蔵追悼の豪華本を夢見ていた。
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