歌舞伎役者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:27 UTC 版)
「大川橋蔵 (2代目)」の記事における「歌舞伎役者として」の解説
柳橋の芸妓の子として出生し、生後まもなく小野家の養子となる。養父は市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。 1935年(昭和10年)11月、市川男女丸を名乗って初舞台を踏む。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、以後目をかけられるようになる。1944年(昭和19年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに、二代目大川橋蔵を襲名した。「大川橋蔵」は、かつて三代目菊五郎が一旦引退した後、舞台復帰した際に名乗った由緒ある名跡である。実子がないので養子(七代目尾上梅幸)をとったら、今更ながらに実子(二代目尾上九朗右衛門)に恵まれてしまったという複雑な家庭の事情をもつ六代目が、この名跡を橋蔵に与えて妻の養子とした意味は大きかった。橋蔵をもう一人の「菊五郎」の継承者候補とすることで、三人の子はより一層の切磋琢磨を強いられることになったのである。 この頃から六代目は体調を崩しはじめ、晩年はその芸も曇りがちになったが、それでも橋蔵は1949年(昭和24年)7月に六代目が死去するまで一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、役者として、そして大看板として己がいかにあるべきかを身につけていった。 六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、主に娘役として頭角を現すようになる。菊五郎劇団の女形としては、まず七代目尾上梅幸がおり、次に七代目中村福助が控えていたが、橋蔵はその後に控える第三の地位を占めるようになった。しかし六代目という絶対的な後ろ盾を失った橋蔵は、歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていた。またこのころ、一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が、自分とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりにすすめていたという。1953年に東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど、保守的で硬直化した当時の梨園の内部事情も影響し、最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切ったが、歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕の演目に選び、観客を喜ばせた。
※この「歌舞伎役者として」の解説は、「大川橋蔵 (2代目)」の解説の一部です。
「歌舞伎役者として」を含む「大川橋蔵 (2代目)」の記事については、「大川橋蔵 (2代目)」の概要を参照ください。
歌舞伎役者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/17 03:37 UTC 版)
「中村歌昇 (2代目)」の記事における「歌舞伎役者として」の解説
三代目中村時蔵の長男。三代目中村種太郎の名で1936年(昭和11年)5月初舞台。1951年(昭和26年) に、二代目中村又五郎らと梨苑会を結成し、元禄歌舞伎の復活上演など野心的な舞台活動を行う。 1953年(昭和28年)4月歌舞伎座で二代目中村歌昇を襲名。 しかし、幼少時から患った病気のため、志半ばで役者を廃業した。
※この「歌舞伎役者として」の解説は、「中村歌昇 (2代目)」の解説の一部です。
「歌舞伎役者として」を含む「中村歌昇 (2代目)」の記事については、「中村歌昇 (2代目)」の概要を参照ください。
- 歌舞伎役者としてのページへのリンク