大阪歌舞伎座と上方歌舞伎とは? わかりやすく解説

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大阪歌舞伎座と上方歌舞伎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:15 UTC 版)

日本ドリーム観光」の記事における「大阪歌舞伎座と上方歌舞伎」の解説

大阪歌舞伎座おおさかかぶきざ)は1932年開場千日前楽天地跡地建てられ地上7階建地1階ビルの1〜4階占めた。3,000収容大劇場ながら東京歌舞伎座よりも舞台設備充実しており、客席芝居が見やすく設計されていて、まさに上方歌舞伎の殿堂であった初代中村鴈治郎こけら落しの際、「ほんまにのようだす」とコメントしてこの豪華劇場誕生感涙したという。千日土地建物通称千土地)が劇場の経営にあたり松竹興行による上方歌舞伎定期的に上演された。翌1933年には6階アイススケート場併設劇場横の飲食店立ち並ぶ横丁は「治郎横丁」(現:ビック通り)と名付けられ賑わった。 太平洋戦争敗戦後1945年10月6階スケート場等が占領軍向けの特殊慰安所キャバレー)に改装された(後述キャバレーの項参照)。 1954年爆発的な扇雀ブーム」に乗じた関西松竹の「役振り」への不満が爆発して紛争続発肝心中村扇雀(現:四世坂田藤十郎)も宝塚映画との契約松竹の劇場への出演激減したので、上方歌舞伎観客動員力は急速に低下したこのため不採算物件化した大阪歌舞伎座御堂筋西側縮小移転することとなり、1958年4月いっぱい閉鎖され建物内部改装して複合商業施設千日デパートとなった。この1958年1月興行より興行主体は松竹から千土地興行に代わっていた。 「千日デパート火災」も参照

※この「大阪歌舞伎座と上方歌舞伎」の解説は、「日本ドリーム観光」の解説の一部です。
「大阪歌舞伎座と上方歌舞伎」を含む「日本ドリーム観光」の記事については、「日本ドリーム観光」の概要を参照ください。

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