代々木練兵場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 12:43 UTC 版)
「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」の記事における「代々木練兵場」の解説
現在の代々木公園一帯には江戸時代、大名や旗本らの下屋敷などが点在していた。明治維新後、これらは民有地となり、一面の茶畑・桑畑となっていた。 陸軍省はこの地の買収を進め、1909年(明治42年)7月、陸軍練兵場と衛戍監獄(陸軍刑務所)が設置された。この陸軍省用地の範囲は現在の代々木公園よりも広く、南側は現在の渋谷区神南にあるNHK放送センターから、同・宇田川町の渋谷区役所・渋谷公会堂周辺一帯までに及んでいた。代々木練兵場は博覧会開催のために閉鎖された青山練兵場(現在の明治神宮外苑、55,000坪)の代替地でもあり、麻布、赤坂の歩兵連隊の演習場として使われた。 この地では1910年(明治43年)12月19日、陸軍大尉・徳川好敏が日本で初めての飛行機飛行に成功している。また、陸軍刑務所は練兵場の南端である現在の渋谷区役所付近に置かれていたが、1936年(昭和11年)11月には、同年2月に起こった二・二六事件の主謀者15名の死刑(銃殺)がここで執行された。 一方、それまでの畑地が練兵場となったことから、渋谷・幡ヶ谷地区などでは舞い上がる赤土による風塵被害が甚大であり、1927年(昭和2年)10月には練兵場の移転を求める住民大会が開催されている。 練兵場は演習のないときには一般に開放され、草野球や凧揚げなども行われていたという。 練兵場はひどかったな。あそこは馬糞がゴロゴロしているんだ。別に許可をもらっていたわけじゃないから仕方がないけど、近くの銭湯で練習後に風呂を浴びると鼻の穴や耳の穴からワラが出てくるんだ。陸軍が来て演習が始まると「あっち行ってやれ」って言われたり、うるさい憲兵がいたり。こっちも勝手に使っていたんだから、文句は言えなかったけどね。 — 北島忠治、『「前へ」明治大学ラグビー部 受け継がれゆく北島忠治の魂』 株式会社カンゼン、2011年、31頁 一般開放は昭和10年代になると中止され、練兵場は太平洋戦争(大東亜戦争)末期、学徒の教練場としても使われた。また、近隣にある代々木八幡宮の境内には、練兵場の造成に伴って立ち退きを強いられた元居住者らが奉納した石碑、「訣別の碑」が設置されている。終戦直後には、国家主義団体・大東塾の塾生14名が天皇に敗戦を詫びるため、この地で自害して果てた。
※この「代々木練兵場」の解説は、「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」の解説の一部です。
「代々木練兵場」を含む「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」の記事については、「ワシントンハイツ (在日米軍施設)」の概要を参照ください。
- 代々木練兵場のページへのリンク