明道館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/12 22:01 UTC 版)
明道館(めいどうかん)は、江戸時代後期の安政2年(1855年)に福井藩主・松平慶永が設立した藩校。
慶永は、嘉永5年(1852年)の横井小楠による意見書「学校問答書」などを参考に学問振興による人材育成を企図し、安政2年1月、福井城三の丸の大谷半平(大館兵馬)屋敷地を学問所とすることとし、同年3月に完成[1][2][3]。
高野半右衛門(真斎)を教授に、前田万吉・吉田悌蔵・徳山唯一を助教に任じた。入学資格は数え15歳以上の帯刀身分以上を原則とし、それ以下の者や最寄りの塾で素読をする14歳以下の書生なども入学を許された。講釈・表講・素読・幼儀・会読輪講が日時を決めてなされた(休日は1日・15日・25日)。学科は、江戸での学問修行より帰藩した橋本左内が監事兼助教同様に登用された安政3年以後に充実され、経書科・国史科・歴史諸子科・典令科・詠歌詩文科・兵書武技科・習書算術暦学科・医学科・蘭学科が設けられた。なお、医学科は別に済世館(文化2年・1805年設置の仮医学所が淵源)で教授された。[1]
安政3年3月の慶永の帰国後、6月に明道館「御規則」を制定、11月以降は15歳以上40歳までの300石以上の家臣・子弟は1か月のうち10日間、朝四ツ時から夕七ツ時まで館に詰めて学ぶこととされた[1]。
安政4年1月、橋本左内が学監同様に就任[4]。同月に「外塾」が城下に4か所指定され、藩士子弟を対象として素読など基礎教育を充実。また、西洋兵術・武器の採用に伴う軍政改革の一環として、同年4月に「武芸稽古所」を設置し、明道館付属とした。さらに、同月に「洋書習学所(洋学所)」を明道館内に開設、教師として医学所の教導者が担当し、10月には医学所付属となった。また、9月頃からは実用的教科として財政・建築・砲術・暦法・航海術の基礎となる算科も導入された。[1]
安政4年8月に橋本左内が江戸詰となった後は、村田巳三郎(氏寿)が幹事局御用取扱と武芸所御用掛を兼務。同年11月には大砲科を設置。安政5年4月、熊本藩から横井小楠が明道館に招かれると、40歳以下の藩士を強制的に館に詰めさせる体制は変化し、生徒の自主性や藩校としての主体性が尊重されるようになった。[1]
その後、文久3年(1863年)に三の丸北側、濠を隔てた八軒町空き地(元鷹冷場)に移ったのち(元治1年迄)、足羽川に面した木蔵に移転した(明治2年迄)[5]。
明治2年5月22日(1869年7月1日)、明新館と改称[6][7]し、福井城内に移転。後の旧制福井中学校、現在の福井県立藤島高等学校へとつながる。
由利公正、関義臣、日下部太郎などを輩出した。明新館時代にはウィリアム・グリフィス(理化学担当)等のお雇い外国人も招かれた。
脚注
- ^ a b c d e 『福井県史』通史編4(近世2)第5章第1節1の「明道館の開設」及び「明道館の充実」参照(福井県文書間デジタル歴史情報・福井県史 通史編)。
- ^ 「明道館用留抜書」『福井市史』資料編9、1994年
- ^ 文部省編『日本教育史資料 貳』1890年、8頁。
- ^ 安政4年1月、橋本左内は「明道館御用掛り被仰付、学監同様可相心得候」とある。「明道館用留抜書」『福井市史』資料編9、1994年
- ^ 吉田健「福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)について」『福井県文書館研究紀要』2、2005年3月
- ^ 文部省編『日本教育史資料 貳』1890年、37頁。
- ^ 5月22日条、福井県文書館「越前世譜 茂昭様御代 データセット」https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/05/2018sefu.html
外部リンク
明道館(明新館)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:00 UTC 版)
「福井県立藤島高等学校の人物一覧」の記事における「明道館(明新館)」の解説
松平春嶽 - 明道館創始者、第14代越前福井藩主(幕末の四賢侯の一人)。新政府内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿 橋本左内 - 蘭方医(適塾で緒方洪庵に師事)、明道館学監心得(洋書習学所設置) 由利公正 - 政治家。新政府徴士参与(金融財政政策)・会計事務掛・御用金穀取締。五箇条の御誓文起草者。東京府知事。岩倉具視遣欧使節随行員。民撰議院設立建白書署名者。元老院議官、貴族院議員。有隣生命保険会社初代社長 関義臣 - 政治家。亀山社中・海援隊士。昌平坂学問所舎長、大阪府権判事、鳥取県権令、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員 日下部太郎 - 第一号海外留学生(米国ラトガース大学) 横井小楠 - 明道館講師、熊本藩士(松平春嶽の政治顧問) ウィリアム・グリフィス - 明新館理科教師(日本初の米国式理科実験室を設置) 青山貞 - 内務省官僚。参与職内国事務局判事、東京府大参事、司法大書記官、秋田県知事、元老院議官、貴族院議員 坪井信良 - 蘭方医。明道館洋書習学所講師、福井藩医、幕府奥医師、お玉が池種痘所設立、東京府病院長 村田氏寿 - 政治家。明道館講師、福井藩大参事、福井県参事、岐阜県権令、内務大丞兼警保頭(神風連の乱を鎮定) 中沢岩太 - 化学者。京都帝国大学理工科大学初代学長、京都高等工芸学校初代校長
※この「明道館(明新館)」の解説は、「福井県立藤島高等学校の人物一覧」の解説の一部です。
「明道館(明新館)」を含む「福井県立藤島高等学校の人物一覧」の記事については、「福井県立藤島高等学校の人物一覧」の概要を参照ください。
- 明道館のページへのリンク