東播磨八郡守護代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/26 02:09 UTC 版)
やがて準備を整えた赤松政則は則治らを伴って反撃に転じ、文明17年(1485年)3月27日~28日の蔭木城の戦いで山名軍の垣屋豊遠・垣屋宗次・垣屋孝知を討ち取る大勝を収め、東播磨における山名駐留軍の拠点を奪い返し、真弓峠の敗戦の雪辱を果たす。則治はこの戦の前に赤松氏の他の重臣と共に播磨での人夫の徴発を行なったが、他の重臣が守護の意を奉じる奉書形式を取る一方で、則治だけは自らの陣に集うように通達している。 長享2年(1488年)1月の英賀の戦いで山名軍に快勝。また、同年3月14日付けの書状で初めて則治は「守護代」という名義のもとに書状を発給している。そして同年4月に山名政豊を坂本城より追った事によってようやく赤松軍は播磨から山名の勢力を駆逐し、6年間に及ぶ戦いに終止符が打たれた。
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