東捜索隊壊滅とは? わかりやすく解説

東捜索隊壊滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「東捜索隊壊滅」の解説

先行する捜索隊は、5月28日早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破成功したの1.7キロメートル手前陣取り応急陣地構築していたが、東捜索隊動きは既にソ連軍察知されていて、3時40分にはブイコフ支隊のルビーノフ上級中尉が「砲と装甲車伴った自動車化歩兵縦隊移動中」と報告している。その報告受けたイヴェンコフはブイコフ装甲車6輌で東隊攻撃に向かわせた。しかしブイコフ装甲車隊は、東捜索隊構築中の応急陣地突入してしまったため、東隊激し攻撃によりブイコフ搭乗していた指揮官車が擱座させられた。行動不能となったブイコフ指揮官車を鹵獲しようと日本兵接近してきたため、やむなくブイコフ指揮官車を放棄して日本軍追撃かわして退避した。東捜索隊ブイコフ残していった書類見て自分らがソ連軍後方達していたことを初め認識したブイコフはどうにか戦闘指揮所逃げ戻るとイヴェンコフに「敵はわが軍包囲し渡河施設奪取した」と報告している。この時点では東捜索隊渡河点までは達していなかったが、ブイコフ混乱により誤った報告をしたことなる。戦闘には勝利した捜索隊であったが、これで存在ソ連軍知られてしまったため、不安を感じた隊長の東は6時10分に「敵の進路遮断し目下敵と対戦中にして、すでに戦車2(実際装甲車トラック1を捕獲す。速やかに支隊進出を待つ」という打電をしている。しかしこの電報山県大佐に届くことはなかった。 山県支隊主力28日の8時にソ連・モンゴル軍陣地中央を攻撃攻撃受けたモンゴル騎兵隊15連隊ブイコフ支隊ソ連狙撃兵第2中隊退却した日本軍そのままソ連・モンゴル軍を包囲しようと2個中隊を前進させたが、ここでソ連・モンゴル軍は唯一予備部隊として残していたモンゴル第6騎兵師団形勢逆転のために投入した。しかし、騎兵隊進撃直後日本軍猛射立ち往生させられところにソ連軍の122mm榴弾砲自走砲日本軍誤認し砲撃したため大混乱に陥り、さらに日本軍追撃バラバラ分散して潰走師団長のチメディディーン・シャーリーブー(モンゴル語版)が戦死した。 この日の日本軍は、支隊主力、東捜索隊など6隊に分かれて前進したが、無線機欠陥互いに連絡取りにくかった上に、目標物乏しく地点評定ができなかったため、幅30 kmに近い広正面各部隊バラバラに戦うことになってしまった。その中で前進しすぎた東捜索隊敵中孤立することとなった上に、支隊主力との戦闘後退したソ連・モンゴル軍部隊と、ハルハ河西岸集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊砲兵1個大隊増援部隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった。一方ソ連軍も全く同じ状況で、部隊車両無線機が十分行き渡っていなかったため、有線電話連絡将校による通信頼っていたが「交戦始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡途絶し統制失われ各部隊放任され分隊単位現場の状況想像しながら独自に戦った」とソ連側記録している通り各部隊個別判断バラバラ戦闘しており、日ソ両軍とも上級司令部指揮及ばない中で独自の判断で戦うこととなった日本軍山県支隊主力攻撃開始した8時頃から東捜索隊ソ連・モンゴル軍の猛攻を受けることとなったハルハ河西岸高台配置されていたソ連軍の122mm榴弾砲自走砲直接照準撃ち下ろし支援砲撃加えてくる中で、東捜索隊戦車装甲車伴った騎兵狙撃兵攻撃何度も受けたが、死傷者続出ながらもその度撃退した戦車8輌を伴ったソ連軍狙撃兵部隊攻撃に対して十三重機関銃対戦車兵器として使用し、敵戦車2輌とトラック2台を撃破し撃退している。東捜索隊を完全に包囲したソ連・モンゴル軍は、接近することなく榴弾砲速射砲での砲撃加えてきたが、撃ちこまれた砲弾数は3,000発にもなった。砲撃されている東捜索隊の最も強力な火器十三重機関銃で、砲撃に対して対抗できる火器はなく、一方的に撃たれるのみであったため、砲撃避けるため全兵力背斜面に退避させた。隊長の東は支援要請のため、伝令3度出したが、山県のいる指揮ではなく、他の部隊到達している。しかし、他の部隊優勢な敵と相対しているか、高台砲兵陣地から狙い撃たれているかで東捜索隊支援する余力はなかった。17時にはようやく山県連絡通じた。実はこの時点山県支隊主力は東捜索隊から3 kmにおり、双眼鏡により山県は東捜索隊苦境見ていたが、他の隊同様に過小評価していた敵の予想外戦力に、増援を出すことはできず、武器弾薬支援しか行わなかった。しかし、この武器弾薬も東捜索隊には届かなかった。 28日夜にタムスクからソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊一部自動車輸送到着すると、残存部隊到着を待つこともなく行軍体勢のまま東捜索隊攻撃した。しかし、隷下の部隊と全く統制取れておらず、各隊バラバラ戦闘突入したため、主要な火器重機関銃2に擲弾筒しか持たなかった東捜索隊夜襲攻撃により、放棄した戦車4輌とトラック数台を残して撃退された。この時点で東捜索隊は全兵員157名の内、中隊長2名を含む戦死19名、重傷40名、軽傷32名、合計死傷者91名にも上り戦闘力喪失していたため、捜索隊派遣されていた師団参謀の岡元少佐から「このままでは陣地維持困難、後方後退」との意見具申があったが、山県からの正式な撤退命令届いていなかったため隊長の東は「命令なき以上、一歩後退せず」と突っぱねる全員集めてこの方面で、日本軍始めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却して物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守して、この次は靖国神社会おう」と悲壮な訓示をした。 翌朝から東捜索隊には激し砲撃浴びせられた。温存していた捜索隊唯一の九二式重装甲車にも着弾し撃破された。その後砲撃の支援を受けながら第149連隊一個大隊がKht-26化学戦車5輌を伴って捜索隊陣地攻撃行った化学戦車の火炎放射それまで固く陣地守っていた東捜索隊兵士ひとたまりもなく陣地放棄した。この事例により火炎放射日本軍歩兵対し有効であるということ立証されこの後要所要所投入されることとなった14時に東は負傷兵脱出命じたが、もはやそのような状況ではなくなっていた。15時鬼塚曹長を呼ぶと、山県への戦闘経過報告遺書言付け脱出させ、18時、残存20名の兵員連れて突撃した。東は負傷してうつ伏せになって倒れているところを生け捕りにしようと跳びかかってきたモンゴル第6騎兵師団17連隊のロドンギーン・ダンダル(モンゴル語版)連隊長取っ組み合いになり、力でねじ伏せようとしたところで、危険を感じたダンダルから腹部拳銃を2発撃ち込まれ戦死した。ダンダルはこれらの戦功により、戦死したシャーリーブーに代わって第6騎兵師団師団長昇進している。

※この「東捜索隊壊滅」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「東捜索隊壊滅」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

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