軍事衝突と前哨戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
第23師団が進出すると、ソビエト、モンゴル両方の国境付近での紛争が激増することとなった。1月20日に凍結したアルグン川を渡って対岸を捜索していた、東八百蔵中佐率いる師団捜索隊の兵要地誌班がソ連軍に急襲されて田川伍長が拉致されるという事件が発生した。東は歩兵1個中隊をもって田川奪還のためソ連軍と交戦したが、田川を奪還することはできなかった。以後も紛争は断続的に起こっていたが、4月23日~24日にかけての軍事衝突は大規模なものとなり、満州国軍の兵舎などがソ連軍の攻撃で焼失、小松原は歩兵1個中隊と山砲を紛争地に派遣し、自らも捜索隊長の東や幕僚らを連れて紛争地に乗り込んでいる。約130人のソ連軍に山砲の砲撃を浴びせた後に、満州軍にはアルグン川を渡河してソビエト領内にある兵舎を焼却せよとの命令が下り、満州国軍部隊を率いる島田少佐が攻撃準備をしている時に、流氷期の終わりを告げる大音響が鳴り響き、凍結した川を徒歩で渡河するのが危険となったため、越境攻撃は中止されている。 その後も満州国軍とモンゴル軍の小競り合いは続いた。5月11日~12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。 関東軍司令部には5月13日に第23軍から「昨12日朝来、外蒙軍(モンゴル軍)約700名がノモンハン西方地区にてハルハ河を渡河し不法越境して満州軍と交戦中、増援もあるものの如し」「防衛司令官は師団の一部と在ハイラル満州軍全軍(約300名)でこの敵を撃滅せんとす」「爾後の増援の考慮と自動車100台の急派、防衛司令官が使用できる偵察機の急派待機せしめられ度」との軍機電報が届いた。関東軍作戦参謀辻政信ら関東軍幕僚らは誰一人「ノモンハン」という地名を知らず、慌てて地図でその地名を見つけ出したが、後にこの地名が世界を震撼させる戦場になろうとは、誰も思わなかったという。ただし、小松原の要求に対して、関東軍はその電報を受信したわずか2時間25分後に飛行第10戦隊(偵察機1個中隊、軽爆撃機2個中隊)、飛行24戦隊(戦闘機2個中隊)と飛行場大隊2個の航空部隊と自動車第1連隊の2個中隊という小松原の要求を上回る戦力の急派を決定しており、関東軍幕僚はノモンハンの地名も含めて状況を熟知しており、前もって周到に準備していたとする意見もある。 関東軍司令部のお墨付きを得た小松原は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き揚げた。しかし、派遣されていた飛行第10戦隊の軽爆撃機5機が、東の捜索隊を支援するため、モンゴル主張の国境はおろか、日本・満州国主張の国境であるハルハ河も越えて、ハルハ河付近のハマルダバ山地区に展開していたモンゴル軍の兵舎パオ群を越境爆撃し、14人~25人の死傷者が生じている。飛行第24戦隊は5月13日に出撃命令を受け、18日以降1個飛行中隊をカンジュル飛行場へ進出させ哨戒にあたらせた。5月20日に第1中隊鈴木昇一中尉らがハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜し初戦果を上げた。日本軍はさらに飛行第11戦隊の第1、3中隊を5月24日に増援投入し、6月10日に一旦原駐地帰還命令がでるまで制空爆撃機支援を行った。
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