ノモンハン事件で壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 07:22 UTC 版)
「第23師団 (日本軍)」の記事における「ノモンハン事件で壊滅」の解説
1938年(昭和13年)4月に、第15・第17・第21・第22師団と共に、関東軍後方警備用に熊本で編成された歩兵三個連隊編制師団である。 編成当時の状況は、内地には常設師団は近衛師団を含めて2コしか残っておらず、朝鮮に1コ、関東軍に5コ、そして中国に常設師団、特設師団の殆んどを投入していた。更に、昨年度動員計画入っていた特設師団3コが、母体常設師団の損害続出で、その補充に負われて編成が不可能になっており、昭和13年度にも動員計画に入れることができなかった。 関東軍は対ソ戦備が大いに不安な状態で、この5コ師団は後方警備用とし、少ない兵力の懐事情の中で前線後方を分離する事で常設師団を第一線に専念させる事で、総合戦闘力向上を目論んで編成された。後方警備用なので編制装備は次等とされた。当初、同期編成の4コ師団と共に、実践訓練を兼ね戦闘経験を積ませるため中国戦線投入を予定した。5コ師団うち第23師団だけは、満州北部のハイラルに駐屯していた騎兵集団を中国戦線に転用する為、代わりに直接満州へ派遣された。戦闘経験を積ませる為と言えば聞こえが良いが、その実は中国戦線に増兵し一気に事件解決が狙いだった。中国戦線への投入された第15・第17・第21・第22師団の4コ師団は、中国戦線が広がり続けたため抜けられなくなり、ついに本来の編成目的である満洲に来ることは無かった。 実は陸軍は、この5コの師団新編成は時局対応だったが予算処置に困っていた。師団の新編成には議会の承認を必要だったからである。幸いなことに、支那事変臨時特別会計紛れて臨軍会計で処理することができて、秘密部隊から晴れて公開できる師団となった。 第23師団の不安は、新編成で実践経験が無く錬度が高くないこと。更に、西部国境はソ連の脅威はそれ程高くないと判断されていたが、練成教育に集中する環境にないこと。後方警備用師団なので編制装備が次等であること。3単位師団で歩兵力不足が予想されることだった。 師団はハイラルの警備に当っていたが、1939年(昭和14年)5月11日に満州と外蒙古の国境地帯であるノモンハンでソ連・モンゴルとの国境紛争が起こると、日本側の主力部隊として実戦を経験することになった(紛争の詳細はノモンハン事件参照)。 師団長の小松原道太郎中将は、関東軍の方針によって、まず師団の一部兵力からなる「東支隊」(支隊長:第23師団捜索隊長の東八百蔵中佐)を編成して派遣した。支隊が到着した時にはソ連側は撤退後であったが、支隊が帰還すると再びソ連側部隊が姿を現した。そこで師団は、先の東支隊に歩兵第64連隊(連隊長:山県武光大佐)を加えた「山県支隊」を編成し、再度派遣したところ戦闘となった。この戦闘で東八百蔵中佐は戦死し、山県支隊もまた後退した。 状況を見た関東軍は戦車第3連隊及び戦車第4連隊などを増派した。第23師団では歩兵第64連隊が戦車隊に編合されて「安岡支隊」(支隊長:安岡正臣中将)となった。第23師団司令部が総指揮を獲っていたが、更に、他の師団、国境守備隊、独立守備隊等からの抽出部隊、関東軍直率砲兵工兵等、軍隊区分で多くの部隊を編入されて指揮をするには師団司令部では能力不足で、飛行集団との連絡のためにも軍司令部の設置が必要と判断され、8月4日に第6軍(軍司令官:荻洲立兵中将)が創設された。(元々第6軍は、翌年度新編成が予定されていたが、事件発生のため急遽予定を早めて緊急編成された。)現在、前線に出動している司令部じは、歩兵団、戦車団各1コであり、将官が指揮しているとは言え参謀を持たず、本務ではないが相談相手は秘書たる2名の将校だけで、団長自ら情報を整理して決断をくださなければならなかった。そこへ第23師団は参謀長、参謀3人を持つ本格的戦略単位司令部が乗り込むことで、第6軍の中核としての活動を期待され、残留本隊も全力出動した。 しかし、7月初旬の総攻撃失敗で安岡支隊は大損害を受け、7月4日には師団参謀長の大内孜大佐が戦死した。8月20日からのソ連側の攻撃によって日本側はほぼ壊滅し、9月16日にソ蒙軍との間で停戦交渉が纏まるまでに第23師団は補充を受けた人員を含め1万1958名にも及ぶ死傷者を出した。 師団の幹部では、戦闘中に歩兵第71連隊長の森田徹大佐(8月26日 戦死)、歩兵第64連隊長の山県武光大佐(8月29日 自決)、野砲兵第13連隊長の伊勢高秀大佐(8月29日 自決)および歩兵第71連隊長代理の東宗治中佐(8月30日 戦死)が戦死または自決したほか、戦闘終了後に歩兵第72連隊長の酒井美喜雄大佐(9月15日)、師団捜索隊長の井置栄一中佐(9月17日)らが自決した。 戦死した大内参謀長の後任となった岡本徳三大佐、第23歩兵団長の小林恒一少将らも重傷を負うなどしている。動員兵力のおよそ8割を失った事から、「悲劇の小松原兵団」と呼ばれる。
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