ノモンハン事件後
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第11軍司令部付となった辻は軍紀係を命ぜられ、夜の漢口の街を厳しく取締った。第11軍参謀の山本浩一少佐が頻繁に料亭に出入りし情報収集代として金銭を渡していたことを中央に告発し、山本が東京に召喚されるという事件があった。 1940年(昭和15年)8月に中佐に進級。辻は、12月25日付で、南方作戦の準備のため台湾軍司令部内に新たに設置された研究部(第82部隊)第1課(企画課)に配属され、作戦に必要な戦闘方法等の研究や資料の収集・調査を指導した。 1941年(昭和16年)6月頃、参謀本部作戦部で、第11軍に左遷されている辻を呼び戻そうとする動きが起こり、これに反対した参謀本部作戦課長・土居明夫は参謀本部作戦部長・田中新一と対立、同年7月1日付で土居は転出し、作戦班長だった服部卓四郎が作戦課長に就任した。(土居はノモンハン事件直前にモスクワから日本に戻るシベリア鉄道でノモンハンに集結する戦車等の輸送が行われているのを確認し、関東軍等に対応を進言したが辻に握りつぶされた前歴がある。)台湾軍研究部は1941年7月に閉鎖され、辻は1941年7月10日に参謀本部作戦課の兵站班長に補任された。 ノモンハン事件の頃は北進論者であった辻であるが、この時期は南進論者に豹変していた。田々宮英太郎によると、1941年秋、日米首脳の直接会談によって戦争回避をはかった近衛文麿内閣総理大臣の爆殺を計画したが、直接会談はおこなわれず、近衛内閣も退陣したため、爆殺計画は実行されなかった。この時期になると辻は石原の敵対者であった東條英機内閣総理大臣に接近している。
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