戦術と運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:10 UTC 版)
ノモンハン事件後の1939年(昭和14年度)後半、陸軍部内に置かれた大陸要塞研究委員会では対ソ戦における縦深陣地の突破を研究した。研究報告では突破に際し、縦深防御陣地に対して最前面に超重戦車、二列目に特殊車両、三列目に中戦車を配している。超重戦車にはソ連の構築した縦深陣地の、強固に防御された対戦車砲を破壊することが要求された。対戦車砲の破壊の後、特殊車両は対戦車壕・鉄条網などの障害を排除、啓開により中戦車が陣地内へ侵入する。ここで超重戦車には砲撃に耐える重装甲と対戦車砲を破壊する大口径砲が要求された。従来の多砲塔戦車は陣地攻撃に伴い、肉薄攻撃を防ぐため多砲塔形式を採用したが装甲は薄いものだった。また75mm、105mm級の野砲、軽榴弾砲では強固な野戦陣地内の対戦車砲の撃破は困難であり、口径150mm級の重榴弾砲が必要だった。超重戦車の役割は、対戦車障害と対戦車砲の発達によって日本軍中戦車の陣地突破が阻害されることへの補助に当たるものであり、任務としては限定的なものだった。 超重戦車の限定的な役割から以下の運用想定がなされた。この車輌は鉄道などによって分解輸送し、整備場で組立てた後、敵陣地に向かって短い距離を自走、戦闘を行なう。超重戦車は道路・橋梁などを含む長距離を自走せず、機械化部隊の機動戦などに投入されることはなかった。このためオイ車はボルトにより側面装甲を脱着できる。車体はトレーラーに乗せるか、履帯と転輪を外して牽引仕様とし、トウバーを付けて牽引車で移動した。装甲や機材はトラックに分載し輸送する。 戦局の推移に伴い、対ソ戦における陣地突破作戦の実施可能性は弱いものとなった。1943年(昭和18年)にはオイ車が試走を実施したものの走行には耐えなかった。この後の戦局の悪化に伴い、日本には超重戦車に傾注する資源と人員は残されていなかった。
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