ノモンハン事件における対戦車戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 13:27 UTC 版)
「手投火焔瓶」の記事における「ノモンハン事件における対戦車戦闘」の解説
火焔による対戦車戦闘の有効性は早期に着目されていた。1928年7月、将校教育用に教育総幹部が編集した『対戦車戦闘法』においては、手投げ式の火焔瓶が攻撃器材として登場しない。代わりとして登場するのは火焔放射器である。この教範では戦車の孔、隙間への火炎放射が有効であるとし、戦車への火焔攻撃に着目している。 1937年7月、西村進少佐はスペイン出張中に、戦車に対してガソリンを詰めた瓶を使用した結果が良好であることを本国に報告した。しかし日本では、始動しておらず加熱した状態にない、しかもディーゼルエンジン搭載車に対する試験のため不成功に終わった。 1939年、日本陸軍はノモンハン事件において初の大規模対戦車戦闘を経験し、応急の対戦車兵器として火焔瓶が投入された。ノモンハン事件中に火焔瓶の製造に関わる正規の訓令が出されたことはない。1939年5月28・29日、3名の日本軍歩兵がトラックで移動中にT-37と遭遇、このとき彼らはガソリン缶を投げてT-37はそれを踏み、炎上した。一説にはこの事件により火焔瓶が導入されたとされる。
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