日本側戦訓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 13:27 UTC 版)
ノモンハン事件後の1940年、『支那派遣軍昭和十五年度第二次幹部集合教育記事第2輯(工兵)』では対戦車戦闘の戦訓を記載し、火焔瓶等の評価を行っている。 戦車から行う近距離の視察は困難で、肉薄攻撃は対戦車戦闘として有効である。ただし肉薄攻撃班が過早に飛び出し、または戦車を追って走るような攻撃は無効である。まず兵員は壕、地形を利用して潜伏すること、さらに絶対的な沈着さが要求される。ソ連軍の火炎放射戦車の攻撃は射角が小さく、壕内への攻撃効果は小さい。ただし恐怖などの心理的効果から、攻撃班の兵員が逃走や立ちあがるなどの行為に及ぶのは極めて危険である。攻撃用器材には手榴弾、火焔瓶、戦車地雷、爆薬、吸着爆薬を使用する。手榴弾は少なくとも2個から3個を結束する必要があった。火炎瓶はガソリンエンジン搭載戦車にはそのまま投入しても効果があるが、ディーゼルエンジン搭載戦車には火焔瓶を点火した後に投入しなければ効果がないと指摘した。重戦車に対し戦車地雷は2個を使用、爆薬はターレットリング付近に設置する。 ただしこの当時ソ連側が保有し、ノモンハンに投入した戦闘車輌がディーゼルエンジンを搭載したかについては疑問が付される。ソ連のBT-7戦車用ディーゼルエンジンの生産が軌道に乗ったのは1939年夏以降であり、実車の配備は9月となった。従って投入はまったくなかったか、あるならば少数であった。ソ連軍は戦闘で戦車を大量に喪失し、補充の戦車には、現地改造により火焔瓶よけの金網が機関室周囲に取り付けられた。これは効果があり、火焔瓶攻撃で容易に炎上しなくなった。 日本側戦訓ではさらに、歩兵の肉薄攻撃は新型BT戦車の投入によりやや困難となったと指摘している。攻撃時期の選定には留意が必要だった。敵戦車の死角の減少により、接近がやや困難となった。マフラーの除去、放熱機構の改良によりガソリン瓶の攻撃が困難となった。手榴弾攻撃はほとんど効果がないとされた。敵戦車の突進に対しては障害物の後方に遮蔽して待機、戦車の速度が遅くなった際に死角に侵入、地雷を投入する。吸着爆雷の上面装甲板への吸着、爆薬の起動輪または転輪間への挿入は確実な撃破をもたらした。煙幕の展開は有効であった。また攻撃の前提として対戦車壕の構築が必要であり、肉薄攻撃には高い統制が必要であった。無秩序な攻撃は狙撃を招き、また過早な攻撃により損失をもたらした。報告書では歩兵の肉薄による対戦車攻撃は困難を増しつつあると明確に指摘し、装備と攻撃法の研究を強く要求している。
※この「日本側戦訓」の解説は、「手投火焔瓶」の解説の一部です。
「日本側戦訓」を含む「手投火焔瓶」の記事については、「手投火焔瓶」の概要を参照ください。
- 日本側戦訓のページへのリンク