日本側撮影の再開
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「トラ・トラ・トラ!」の記事における「日本側撮影の再開」の解説
ようやく軌道にのり、エルモから20世紀フォックス日本支社にその後の経緯、現製作状況の報告があったのは1969年3月4日。記者会見も行われ、エルモがマスメディアの前に姿を現したのは二ヵ月半ぶり。エルモから「フォックスとして、金と時間と労力と人間をつぎ込んだ大作である」と強調し、「日本側の撮影は全く日本人スタッフ、俳優に一任し、舛田監督に対してもこちらからは全く制約なしで自由に撮ってもらう」「シナリオは菊島、小国、黒澤、メッチ・リンデン(アメリカ側)の書いた当初のシナリオをそのまま使う。このシナリオは日米両政府の承認を得ている」などの説明があった。この会見で"黒澤解任"の真相の見解を正す質問が出たが、エルモはこの問題を避けたがり、記者から食い下がられたため、やむなく「黒澤が病気かどうかは、診断書という文書で判断するより仕方がなかった。黒澤プロとの間には未処理の問題がたまっており、解決には四ヵ月はかかる」と話しただけで、それ以上は触れようとしなかった。黒澤を監督に抜擢したのはエルモとされ、その後の雑談の中で、「この問題はあくまで黒澤監督と青柳プロデューサーとの間のトラブルという日本人同士の問題であり、黒澤監督が本作から離れたことはフォックスとしては大変残念だ」と話した。またアメリカ側の撮影は順調に進んでおり、本日サンプルをお目にかけたいと、同所の試写室で日本のマスメディアにラッシュを見せた。内容はアメリカで宣伝用にTV放映予定の約20分の短編と、他のラッシュフィルムで、いずれも真珠湾攻撃のシーン。日本軍の奇襲を受け、駆逐艦が火災を起こし甲板に火が燃え上がりスタントマンが活躍するシーンや、真っ暗な海上に浮かぶ空母ヨークタウン(CVS-10)を衣替えした赤城(後述)から発艦する改造した零戦などを映したもので重量感のある美しく壮麗な内容。東宝の特撮映画やプラモデルとは桁が違う迫力。テスト風景の音が入っていないため、エルモから説明を受けながらラッシュを見た。メージャー洋画会社がこのようなことをしたのは初めてで、黒澤解任以来、ケチの付きかけた作品のイメージアップを狙ったアメリカ側のデモンストレーションであった。当時の記者は子どもの頃、弁士付きで松之助映画を観ていた世代もいたため、エルモの説明付き映画は何とも妙な気分にさせられた。この他、源田實氏が元海軍将校を集めてテクニカル・アドバイザーを結成し協力してくれているので日本篇は立派なものが出来ると信じている、舛田利雄、深作欣二両監督と契約書に調印が終わったこと、山村聡、三橋達也、田村高廣、東野英治郎、藤田進、浜田寅彦、野々村潔、十朱久雄、龍崎一郎の出演が決定したこと、準備が整ったので自身(エルモ)はアメリカに帰り、あとはオットー・ラングが引き継ぐなどの説明があった。 こうして舛田利雄と深作欣二が後任監督に決定し両監督を中心に日本側撮影が再開されることとなった。台本は黒澤らが執筆したものが使われ、舛田や深作もその通り撮ったが、アメリカ側が大幅にカットした(黒澤の強い要望から製作会社との協定が結ばれ、本編では一切黒澤の名前がクレジットに出なかった)。黒澤組としてプロジェクトに参加していたスタッフのうち、再び参加が可能な人たちには参加をお願いし、日本側撮影のメインカメラマンは慣れない東映スタッフとの仕事ということもあり舛田たっての希望で日活の姫田真佐久が参加した。今後の九州、京都、大阪での撮影は取材を拒否する方針との表明があった。このため以降の撮影を取材した記事はほとんど見られない。 撮影再開は1969年3月3日。1968年のクリスマスイブから70日ぶりの撮影再開。深作はB班監督ではなく、時間がないので2班に分かれ共同で撮り分けられた。ベテランの舛田は主に東映京都におけるセット撮影と芦屋の戦艦・長門、空母・赤城の原寸大オープンセットでの撮影部分を担当し、深作は主にフロントプロジェクションによる特撮合成が必要になる零戦のコクピット内のシーンの撮影を担当した。 福岡県芦屋海岸でのロケは悪天候にたたられ、予定より2週間近く撮影が遅れ、1969年4月5日ロケ終了。1969年4月9日、東映京都撮影所でスタジオ撮影に入った。東映京都での撮影は1968年12月に黒澤が解任されて以来四ヵ月半ぶり。スタジオは東映京都と当時閉鎖されていた松竹京都撮影所が使われた。フィルムは使い放題で、舛田が7万フィート、深作が3万フィートの合計10万フィート、上映時間にして17時間にもなるフィルムを回した。 深作が担当する特撮部分の撮影は東映京都でなく大阪国際見本市会場2号館の巨大な倉庫を使って秘密裡に撮影された。肝心のフロントプロジェクションは、機材をハリウッドからわざわざ取り寄せたものの故障が多く、撮影は困難を極めたため、クランクアップ後も深作自身は大変悔いを残す結果となった。同所での撮影は1969年3月から4月2日まで。 こうしたスタッフ・キャスト新体制の下、日本側撮影は無事クランクアップ。1969年5月20日に日本側スタッフは解散し、日本側の撮影したフィルムはアメリカに送られた。
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