日本側捕虜についてとは? わかりやすく解説

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日本側捕虜について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:04 UTC 版)

露梁海戦」の記事における「日本側捕虜について」の解説

この海戦及びその前後戦い前後捕虜となった61名の日本兵(降倭)は、朝鮮側より明側に献納され、明の万暦27年日本慶長4年/1599年)に北京全員処刑された。同年4月北京での降倭の献俘式に先だって、兵部尚書として明軍責任者となった邢玠が万暦帝上奏した『経略御倭奏議』の中に降倭に関する報告書「献俘疏」に次の内容がある。降倭のうち、特に重要とされたのは「平秀政」と「平正成」と呼ばれる人物で、前者薩摩出身島津義弘の族姪で京都豊臣秀吉養子になった後に朝鮮派遣されたとされている。後者当初前線からは島津氏一族報告されていたが兵部役人の中から「秀吉家臣である寺沢正成ではないのか?」と疑問出されたために訂正したことが記されている。また、露梁海戦において石曼子の二兄(島津義弘)を討ち取って首を挙げ、「平秀政」と「平正成」に確認させたところ慟哭したという。だが、日本側の資料に「平秀政」に相当する人物存在しておらず、また寺沢正成島津義弘も無事帰還している。これは突然の日本軍撤退によって日本軍主だった武将1人捕縛出来なかった責任追及されることを恐れた明軍事実関係捏造し皇帝成果大袈裟に報告したのである考えられている。また、献俘式で俘虜皇帝目通りさせる際に演出として敵軍首魁とも言うべき大将級の俘虜を必要とした事情もあったと見られる。これとは別に対馬住人七大夫と同一人物推定され小西行長李氏朝鮮の間を往復して和平工作従事していた要時羅も海戦直前6月に明将との会見中に捕縛され明に送られたことが知ることが出来る。後に刑部礼部意見によって「平秀政」と「平正成」は凌遅処死、要時羅ほか残り59全員斬刑とされた。

※この「日本側捕虜について」の解説は、「露梁海戦」の解説の一部です。
「日本側捕虜について」を含む「露梁海戦」の記事については、「露梁海戦」の概要を参照ください。

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