満州へ
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昭和4年(1929年)には『大衆政治の新理想』を著し、同年9月4日、仙石貢満鉄総裁が満州国赴任するにあたって、その秘書役として抜擢され渡満することになる。仙石貢にとっては、守正は土佐郷党の大先輩である退助伯の孫であるため、大政治家の子孫を何とかしてやって欲しいと仲介する人があってこの話が具体化した。この時の守正の心境は『東京朝日新聞』(昭和4年(1929年)8月27日号)によれば、8月26日夜、牛込区若松町の守正邸を訪れて取材した話として、「仙石貢老の許でなら是非働きたいとかねて希望してゐた。今度は当人はいけないとのことで、鉄相時代の秘書宮田中前代議士ですら辞退されてゐるほどで、私が選ばれれば幸ひです。社会局から公私、経済運動のシナリオやポスターも頼まれてゐるが、何とかして満州へ飛び出したいのです」と話し、「家族は外子夫人(内縁)との二人なので身軽にどこへでも行ける」と答えている。 昭和6年(1931年)『板垣退助全集』を編纂する。 後には拓務省嘱託、協調会嘱託、日本講演通信社長、関釜日日新聞社長、亜細亜経済連盟総務などを歴任。 満洲国協和会中央本部宣伝科主任、同広報科主任、四平市本部事務長、民生部参事官を経て、康徳10年(1943年)4月、文教部理事官・教化司社会教育科長(薦任官一等)として奉職。勲六位
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満州へ
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夏、コロンビア大学での卒業式に出席したあと、秋、朝は秩父丸でアメリカから日本へ帰国した。帰国後、母校の共立女学校で教鞭をとった。東伏見宮妃周子からは再度の招きを受け、博士論文テーマについての進講を行い、これは新聞記事でも報道された。またいくつかの雑誌に、アメリカの文化、博物館の役割などを紹介する記事、コラムを発表した。 時代は徐々に悪い方向へと向かっており、1931年(昭和6年)の満州事変、1932年(昭和7年)の満州国建国と続く中国侵略の結果、日本は世界の中で孤立していたが、朝はこの状況について正しい情報を得るため、自ら満州に向かいこの目で確かめたいと考えるようになった。そんな折、朝は満州国の大臣も務めた要人である丁鑑修に出会う機会を得た。丁は朝に、満州国粛第13王女(粛親王の第13王女、川島芳子の異母姉)と朝が2人でアメリカに渡り、日本と満州の文化と立場をアメリカで紹介し、アメリカとの緊張関係を解く一助とする計画案を伝えた。これを実現するため、朝と丁は外交官の天羽英二を訪ね計画への助力を依頼するとともに、満州への渡航を計画した 。 1933年(昭和8年)末、朝は満州の首都、新京を訪ねた。年を越して1934年(昭和9年)、朝は摂政の宮溥儀、鄭孝胥国務院総理、粛第13王女と要人に次々面会し、溥儀からは粛第13王女との渡米に対する支持と許可を取り付けた。しかし最大の懸念は費用であり、満州国政府には自由に使える予算がほとんどなかったため、関東軍の許可を得なければならなかった。結果的に計画は関東軍に握りつぶされ、朝は日本に帰国した。
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