満州へとは? わかりやすく解説

満州へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 17:06 UTC 版)

板垣守正」の記事における「満州へ」の解説

昭和4年1929年)には『大衆政治の新理想』を著し同年9月4日仙石貢満鉄総裁満州国赴任するにあたって、その秘書役として抜擢され渡満することになる。仙石貢にとっては、守正は土佐郷党の大先輩である退助伯の孫であるため、大政家の子孫を何とかしてやって欲しいと仲介する人があってこの話が具体化した。この時の守正の心境は『東京朝日新聞』(昭和4年1929年8月27日号)によれば8月26日夜、牛込区若松町の守正邸を訪れて取材した話として、「仙石貢老の許でなら是非働きたいとかねて希望してゐた。今度当人はいけないとのことで、時代秘書宮田前代議士ですら辞退されてゐるほどで、私が選ばれれば幸ひです。社会局から公私経済運動のシナリオポスター頼まれてゐるが、何とかして満州へ飛び出したいのです」と話し、「家族は外子夫人内縁)との二人なので身軽にどこへでも行ける」と答えている。 昭和6年1931年)『板垣退助全集』を編纂する。 後には拓務省嘱託協調会嘱託日本講演通信社長、関釜日日新聞社長、亜細亜経済連盟総務などを歴任満洲国協和会中央本部宣伝主任、同広報主任四平市本部事務長民生部参事官経て康徳10年1943年4月文教理事官教化社会教育科長(任官一等)として奉職。勲六位

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満州へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:20 UTC 版)

松岡朝」の記事における「満州へ」の解説

夏、コロンビア大学での卒業式出席したあと、秋、朝は秩父丸アメリカから日本へ帰国した帰国後、母校共立女学校教鞭をとった。東伏見宮妃周子からは再度招きを受け、博士論文テーマについて進講行い、これは新聞記事でも報道された。またいくつかの雑誌に、アメリカ文化博物館役割などを紹介する記事コラム発表した時代徐々に悪い方向へと向かっており、1931年昭和6年)の満州事変1932年昭和7年)の満州国建国と続く中国侵略結果日本世界の中で孤立していたが、朝はこの状況について正し情報を得るため、自ら満州向かいこの目で確かめたい考えようになった。そんな折、朝は満州国大臣務めた要人である丁鑑修出会う機会得た。丁は朝に、満州国粛第13王女(粛親王の第13王女、川島芳子異母姉)と朝が2人アメリカ渡り日本満州文化立場アメリカで紹介しアメリカとの緊張関係を解く一助とする計画案伝えた。これを実現するため、朝と丁は外交官天羽英二訪ね計画への助力依頼するとともに、満州への渡航計画した1933年昭和8年)末、朝は満州首都新京訪ねた年を越して1934年昭和9年)、朝は摂政の宮溥儀鄭孝胥国務院総理、粛第13王女と要人次々面会し溥儀からは粛第13王女との渡米対す支持許可取り付けた。しかし最大懸念費用であり、満州国政府には自由に使える予算がほとんどなかったため、関東軍許可を得なければならなかった。結果的に計画関東軍握りつぶされ、朝は日本に帰国した。

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