東洋製罐設立〜満州へとは? わかりやすく解説

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東洋製罐設立〜満州へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:14 UTC 版)

高碕達之助」の記事における「東洋製罐設立〜満州へ」の解説

帰国後、すぐにカムチャツカ渡り堤清六作った缶を購入してサケ缶詰作り行ったが、短期間日本引き揚げた。高碕はまた渡米試みたものの、父に結婚を諭され、1917年50万円資本金大阪製缶会社東洋製罐」を立ち上げた1937年日中戦争勃発する供給滞り始め満州重工業開発譲ってもらうための交渉へ向かう事を考えたが、時局柄、満州生産手伝うことになり、満州重工業開発副総裁就任した満業ではコスト削減に力を注ぎ1942年には鮎川義介代わり総裁になったが、軍部圧力により会社統制が執れない状態になっていた。 1945年8月8日ソ連対日参戦によってソ連軍満州攻め込んでくると、高碕は子供老人疎開談判奔走したが、8月12日極度疲労日射病倒れ、目が覚めたのはポツダム宣言受諾後8月17日だった。そのとき満州国政府要人関東軍幹部などは捕らえられ残されたのは一般人けだった。高碕は日本人会会長としてソ連側帰国できないままでいる多く日本人帰還交渉始めたが、1946年4月になるとソ連軍撤退し中共軍進出してきた。今度中国共産党国民政府帰還交渉進めることになった。 高碕は1947年国民政府賠償調査内地出張を命ぜられ、日本帰還した同年東洋製罐相談役就任した帰国後は戦中遅れた技術取り戻すためにアメリカ企業提携するなど、特に製鉄事業再興努めた

※この「東洋製罐設立〜満州へ」の解説は、「高碕達之助」の解説の一部です。
「東洋製罐設立〜満州へ」を含む「高碕達之助」の記事については、「高碕達之助」の概要を参照ください。

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