東洋艦隊の成立
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「東洋艦隊 (ドイツ)」の記事における「東洋艦隊の成立」の解説
海外における活動に興味を失ったドイツ帝国海軍だが、1894年の日清戦争によって再び中国に対する興味が再燃した。皇帝ヴィルヘルム2世の全面的支持を受けて、ドイツ海軍本部(独語版、英語版)は、海軍少将パウル・ホフマン(en:Paul Hoffmann (naval officer))を指揮官として近代的な軽巡洋艦イレーヌと3隻の老朽化した小型艦船からなる「極東巡洋艦隊」を編成した。 ホフマンの受けた命令は「ドイツの利権の保護」と「中国でのドイツの基地となり得る場所の調査」であった。ホフマンはその任務には艦艇が力不足だった事から、本国海軍本部に3隻の老朽艦の交換を請願した。彼の要請は認められ、カイザー級装甲艦「カイザー」(en:SMS Kaiser (1875))、イレーネ級小型巡洋艦「プリンツェス・ヴィルヘルム(de:SMS Prinzeß Wilhelm)」とブッサルト級小型巡洋艦「コルモラン(de:SMS Cormoran (1892))」が配備された。しかし根拠地を持たない極東巡洋艦隊はメンテナンス・補給面で苦心し、香港のイギリス人や上海の中国人、長崎の日本人に依存していた。本国でもヴィルヘルム2世、宰相、外務大臣、海軍大臣ともに極東に基地を持つ必要性を認識しており、駐中国のドイツ大使も「我が国の艦隊は家のない浮浪児のようなもので、ここでは永続的に航行する事が出来ない」と訴えた。 1896年6月、ホフマンに代わって海軍少将アルフレート・フォン・ティルピッツが着任した。ティルピッツの使命は「中国海岸部における基地の候補地探しとその評価」であった。ティルピッツは膠州湾を推したものの、政府内では他の場所を推す意見が有力であり、ティルピッツ自身も最終報告の段階でも迷っていた。後にティルピッツは海軍大臣として本国に呼び戻され、それ以降彼は本国の海軍力拡充に注力して東アジアに対しての興味を失っていった。ティルピッツの後任には海軍少将オットー・フォン・ディーデリヒス(de:Otto von Diederichs)が任命された。海軍は極度の優柔不断のために基地の場所を決定していなかったが、ディーデリヒスは「私が目指すのは膠州だけである」と断言した。
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