東洋製糖によるリン鉱山の再開
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「北大東島のリン鉱山」の記事における「東洋製糖によるリン鉱山の再開」の解説
南北大東島の事業権、所有権を掌握した東洋製糖は、両島での新たな事業展開を進めた。北大東島では1918年にサトウキビ栽培と製糖を、玉置商会時代の直営方式から小作制度へと変更した。これは直営では開墾にかかる経費から苗代などサトウキビの栽培にかかる費用まで会社側が負担せねばならないため、小作制度にする方が会社側にとって利益になったためと考えられる。 そして東洋製糖は北大東島でのリン鉱山開発に再チャレンジした。再チャレンジの背景には第一次世界大戦時の好況に支えられた沖大東島のラサ島鉱業所の発展があった。1918年、ラサ島鉱業所は年間約18万2600トンのリン鉱石を採掘し全盛期を迎えていた。ラサ島鉱業所の発展に刺激を受けた東洋製糖は1918年4月、かつて玉置商会がリン鉱山開発を試みた島の北西部の黒部岬と玉置平で探鉱を開始し、7月に専門家を招いてリン資源の詳細調査を行い、8月には東洋製糖の北大東島の責任者である北大東島出張所長らが沖大東島の視察を行った。 1918年7月の専門家による調査の結果、リン酸三石灰鉱の埋蔵が確認され、更に大量のリン酸礬土鉱が埋蔵されていることが判明した。東洋製糖は1918年11月、本格的なリン鉱山開設工事を開始した。北大東島では島の西部が風下となることが多く、島内北西部のリン鉱山に隣接して港湾設備を設けるのは荷役上から見ても都合が良いという事情もあった。翌1919年5月に鉱山設備がほぼ落成して鉱業所の落成式が行われた。しかしこの本格的な鉱業所開所は鉱量、鉱質について十分な調査検討を行わずに進められたいわば見切り発車であった。 当初、島内北西端の黒部岬付近のリン酸三石灰鉱採掘を中心に進める計画であり、鉱山の各種設備もその計画に沿って建設された。しかしリン酸三石灰鉱の埋蔵量は少量であった上に採掘が難しく、かつ良質な鉱石も少なかった。一方、リン酸礬土鉱の埋蔵量は豊富であったものの、鉄礬土の含有量が多いために肥料である過リン酸石灰製造には不向きであった。玉置商会が挫折したのと同様に、東洋製糖のリン鉱山開発も失敗に終わるかに見えた。
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