東洋郵船への売却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:29 UTC 版)
純金風呂は、2分間1000円という価格にも関わらず人気を集め、他の富士観光経営のホテルもみな満員であったが、一方で富士観光の「金融不安説」は、1970年(昭和45年)に船原ホテルを手放すことになるかなり前から囁かれていたという。一つの銀行の返済のため他の銀行から金を借りることを繰返していた富士観光は、次第に取引を縮小され、やがては銀行筋からは全く相手にされなくなった。そのため郵政互助会などの利息の高い金を借りるようになったが、やがては土地の売却で凌ぐようになり、富士山麓、富士宮市、八王子市の土地などを次々と売却した。 1969年(昭和44年)12月決算では大蔵省から粉飾を指摘され、2億4千万円の特別損失を出したことで、富士観光の信用は完全に失墜した。このとき富士観光は、姫路市と別府市のホテル2軒を買収していたが、その資金に当てる予定であった富士山麓の土地18万平方メートル(売価・3億7200万円)の売却の契約を、1970年(昭和45年)11月になって破棄されることとなり、これら2軒の新ホテルの買収費、改装費、運転資金3億円の支払いに行き詰まった。 こうした経緯により、遂に富士観光は、1970年(昭和45年)、横井英樹が社長を務める東洋郵船へ、船原ホテルと二子玉川の富士観会館を10億円で売却した。石川とは20年来の友人である横井は「石川さんが八億円(船原ホテル)でいいっていうので向うの言い値で買った」としたが、『実業往来』は「船原ホテルの簿価は十一億七千万円、富士観会館は二億七千万円。したがって二つあわせて十億円で売った石川社長は、この取引きで四億五千万円も損をしたことになる」「富士観光の四十四年十二月決算の売上げは二十八億二千五百万円だったが、船原ホテルがなくなるだけで五億円は減る見込みだ」と報じた。売却のニュースが伝わった11月26日の株式市場では、おおよそ19円前後を維持していた富士観光株が一斉に売り叩かれて9円に暴落し、翌1月には4円前後にまで落ちた。 「横井さんは、ここが気に入らなければ富士観光へ戻れ。このホテルだってすぐ転売しようと思えばできるんだぞという。売り渡されてしまうとわれわれ従業員も敗戦国民みたいにみじめですね」という、船原ホテルの従業員の嘆きも伝えられている。 また、船原ホテルと富士観会館を売却して得た資金も、債務や借地権更新代金で相殺され、富士観光は翌1971年(昭和46年)1月に支払期限を迎える、約1億4000万円の手形決済が不可能となった。1月17日、富士観光は東京地裁に会社更生法の適用を申請し、遂に倒産した。債務は約30億円だった。 一方で東洋郵船は新聞広告を打って、新たに手に入れた2施設の宣伝に努めた。1971年(昭和46年)2月4日に『読売新聞』朝刊14面に掲載された広告では「純金とあなたと船原ホテル」と題し、「純金風呂の船原ホテルと結婚式場の富士観会館は、よそおいも新たに東洋郵船が直営に当っております」「本船原ホテルと富士観会館は会社更生法を申請した富士観光株式会社とは一切関係がありません。何卒皆様のお越しを心よりお待ち申上げております」などと記した。 しかし1982年(昭和57年)には、東洋郵船の経営不振により、船原ホテル全体が東京国税局によって差し押さえられている。
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