東洋英和学校の幹事・校長、そして麻布中学校の校長として
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「江原素六」の記事における「東洋英和学校の幹事・校長、そして麻布中学校の校長として」の解説
東洋英和学校はカナダ・メソジスト教会宣教師ジョージ・コクラン博士により明治10年(1877年)に創立された。明治17年(1884年)に高等尋常の過程を有する普通学校を設立し、明治19年(1885年)に神学部が設けられた。当時は英語に対する要望が多く、各界の有力者達の中で子供を入学させようとした時期だったが、明治20年(1886年)に外人教師による生徒への傷害事件や、外人教師と日本人教師との間にトラブルが発生し、退学する生徒が増加した。このような学校の騒動を解決するため、沼津の集成舎で教師をしていたミーチャム等は、江原素六をカナダミッションに推薦、それに応じた江原素六は明治22年(1889年)6月に上京し、東洋英和学校の幹事として学校運営に参加した。 しかし、翌明治23年(1890年)7月の第1回衆議院議員総選挙に駿東郡下で推薦され、立候補のため幹事を辞職した。明治26年(1893年)に再び東洋英和学校で校内騒動が起こり、江原素六は乞われて校長となり、再び学校運営に携わることになった。その後明治28年(1895年)7月に東洋英和学校は江原素六により2つに分割され、神学生と神学候補性のみで英和学校を組織し、普通科生の大部分を以て麻布尋常中学校を設けた。明治28年(1895年)10月に第一高等学校に特別試験入学の特権附与を出願、翌明治29年(1896年)10月に公認された結果、明治31年(1898年)には第一高等学校5名、第二高等学校4名、第三高等学校2名と全国の中学校の中でも上級学校進学に優秀な成績を示すようになった。 明治32年(1899年)8月に文部省から訓令が出され、中学校における宗教教育や宗教的儀式を禁ずるという主旨だったため、表面上は独立していたが財政的に東洋英和学校の附属学校だった麻布中学校には、カナダミッションから翌明治33年(1900年)3月の廃校が伝えられた。これを契機に江原素六は麻布中学校を東洋英和学校から独立し経営することを決意し、校地の購入のために多額の借金を背負うこととなった。また、校舎建築には寄附金により賄い、明治33年(1900年)9月13日新校舎が落成し、授業が開始された。しかしながら、校舎新築の負債は返済しきれず、麻布中学校を財団法人として債権を発行することに決め、明治36年(1903年)に財団法人として麻布中学校が発足、江原素六は専務理事兼校長に就任した。江原素六は麻布中学校長として、毎日学校に出て、各級の修身講話を行い、校内での祝賀会や送別会などがあると、たとえ質素ではあっても、江原素六は喜んで参加した。
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