東洋語学校日本語講座をめぐる経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:37 UTC 版)
「レオン・パジェス」の記事における「東洋語学校日本語講座をめぐる経緯」の解説
1858年に日仏修好条約が締結され、1862年に日仏修好通商条約改定のために福沢諭吉を含む竹内下野守ら徳川幕府使節一行がパリを訪れるとフランスでは日本への関心が高まりをみせた。パリの国立東洋語学校ではアラビア語のレイノー教授が亡くなった後、アラビア語の代わりに日本語講座が新設された。1868年の日本語講座の初代教授選で55歳のパジェスは、同じ日本史家で20歳も若い31歳のレオン・ド・ロニに敗れ、失望して後は沈黙する。 しかし日本語に対する探求心が消えること無く、パリ国立図書館で手にしたキリシタン版『日葡辞典』(1603年長崎刊)と、そのスペイン語版である『日西辞典』(1630年マニラ刊)を使って『日仏辞典』の編集が1868年に完成した。パジェスが最終的に意図していたことは4巻からなる『日本史』の執筆であった。しかし、あまりにも大きな企画だったので、現実に完成したのは第3巻目に予定していた『日本切支丹宗門史』(1869年-1870年)だけであった。これはイエズス会のヨゼフ・クリセル神父校閲のもと、吉田小五郎により翻訳され、日本における初期キリスト教に関する貴重な資料となっている。1873年には『日本キリシタン迫害と日本遣欧使節記』を刊行した。
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