満州へ〜帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:08 UTC 版)
「古今亭志ん生 (5代目)」の記事における「満州へ〜帰国後」の解説
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る。満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。 1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。この頃から人形町末廣で余一の日に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。 1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった。同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。
※この「満州へ〜帰国後」の解説は、「古今亭志ん生 (5代目)」の解説の一部です。
「満州へ〜帰国後」を含む「古今亭志ん生 (5代目)」の記事については、「古今亭志ん生 (5代目)」の概要を参照ください。
- 満州へ〜帰国後のページへのリンク