満州と日本での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:43 UTC 版)
1938年(康徳5年)10月、満洲国駐日大使館附武官室勤務を命じられて東京に赴任。翌1939年(康徳6年)11月に奉天の歩兵将校軍官学校教官に任官され、1941年(康徳8年)からは新京の満州国軍官学校で教鞭を執る(この時の教え子には後の韓国大統領である朴正煕がいた)。同年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と交戦状態に入ったことを受け、満洲国もこれらの国々と戦争状態に入ったものの、満洲国はほとんど戦禍を受けなかったために、満洲国陸軍の将校として前線に出ることはなかった。 1943年(康徳10年)には日本の陸軍大学校に入校したため、溥傑とその一家はしばらくの間、東京に居を移すこととなった。1944年(康徳11年)12月、学習院初等科に在学中の長女の慧生を残して満洲に戻る。これが慧生と永遠の別れになる。
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