満州からの引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:40 UTC 版)
「葫芦島在留日本人大送還」も参照 満州に取り残された日本人約105万人の送還は、ソ連軍が一貫して無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで、何の動きも見られなかった。一方、米国は、中国大陸に兵士から民間人まで多くの日本人が残留していることが、国共対立が顕在化していた中国社会の不安定要素となることを懸念していた。ソ連軍が撤退し国府軍が中国東北部に進駐を開始するや、米軍の輸送用船舶を貸与して日本人送還を実行に移していった。 早くも同年5月には錦州地区の日本人引き揚げが始まり、夏には旧新京の日本人を含めて本格化し、年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引き揚げていった。満州からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くを満蒙開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。
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