日中友好手をつなぐ会
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1972年(昭和47年)、日中国交正常化を機に、満州からの引き揚げ者や関係者が山本のもとに集い「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本を会長とし、中国の孤児たちの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始された。国の力が得られない以上、山本は寺の収入も自分の老齢年金も活動資金にあてる決意を固めていた。会員の中には「岸壁の母」として知られる端野いせもおり、彼女は協力のために全財産を投げ出すことも惜しまなかった。 この頃から山本は「最後の1人を捜し出すまで」との誓いのもとに茶人帽をかぶり始めた。就寝と入浴時以外は常にかぶるこの茶人帽が、いつしか彼のトレードマークとなった。 同1972年、待望の残留孤児と日本の肉親との再会第1号が実現。この模様はNHKで取り上げられ、翌1973年(昭和48年)にドキュメンタリー番組『阿智村 ある山村の昭和史』として放映された。この頃は中国残留孤児のことはまだ世間では存在すら知られていなかったが、やがてNHKに加えて新聞各紙も孤児らの情報を取り上げたことで、孤児らの肉親探しは次第に本格化し始めた。中国でも、山本が孤児たちを熱心に案じている噂が全土に広まっていた。身元の判明した孤児は、結成時にはわずか2人だけだったものの、地道な活動の末、1980年(昭和55年)には177人にまで達していた。 大阪中国帰国者センターの理事長である竹川英幸も、そうして山本により肉親に巡り合えた1人である。帰国できた竹川が自信をもって「わたしよりみじめな人生を歩んだ人はいない」と言い切ったところ、山本が「ばかもの! 確かにおまえは苦労したが12歳だった。だが妹や弟の年齢の子供たちが何千人、何万人孤児になったのかしれない。その子たちは自分が何者か、いつ帰ってこられるかさえわからないんだ」と怒鳴りつける一幕もあった。 活動が活発化する頃には山本はすでに70歳を超えていたが、それでも長野から東京まで約7時間の経路をものともせずに各省や国会議員を訪ね歩き、霞が関では「ひょうきん坊主」「満州帰りの変人坊主」と呼ばれた。後の長岳寺住職・入亮純(はいる・りょうじゅん)は山本と長岳寺で過ごした経験を持ち、当時の彼の生活の凄まじさを「いつ寝ているかわからないぐらい」と語っている。作家の和田登が1986年(昭和61年)に取材のために山本のもとを訪れた際には、30分おきほどに電話が鳴り続け、そのほとんどが孤児に関する電話だったという。
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