日中友好手をつなぐ会とは? わかりやすく解説

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日中友好手をつなぐ会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 09:29 UTC 版)

山本慈昭」の記事における「日中友好手をつなぐ会」の解説

1972年昭和47年)、日中国交正常化機に満州からの引き揚げ者や関係者山本のもとに集い「日中友好手をつなぐ会」が結成され山本会長とし、中国孤児たちの手紙のやりとりや、日本肉親たちの訪問などの活動開始された。国の力が得られない以上、山本は寺の収入自分老齢年金活動資金にあてる決意固めていた。会員中には岸壁の母」として知られる端野いせもおり、彼女は協力のために全財産投げ出すことも惜しまなかった。 この頃から山本は「最後1人捜し出すまで」との誓いのもとに茶人帽をかぶり始めた就寝入浴時以外は常にかぶるこの茶人帽が、いつしか彼のトレードマークとなった。 同1972年待望残留孤児日本肉親との再会第1号実現。この模様NHK取り上げられ、翌1973年昭和48年)にドキュメンタリー番組阿智村 ある山村昭和史』として放映された。この頃中国残留孤児のことはまだ世間では存在すら知られていなかったが、やがてNHK加えて新聞各紙孤児らの情報取り上げたことで、孤児らの肉親探し次第本格化始めた中国でも、山本孤児たち熱心に案じている噂が全土広まっていた。身元判明した孤児は、結成時にはわずか2人けだったものの、地道な活動の末、1980年昭和55年)には177人にまで達していた。 大阪中国帰国者センター理事長である竹川英幸も、そうして山本により肉親巡り合え1人である。帰国できた竹川自信をもって「わたしよりみじめな人生歩んだ人はいない」と言い切ったところ、山本が「ばかもの! 確かにおまえは苦労した12歳だった。だが妹や弟の年齢の子供たちが何千人、何万人孤児になったのかしれないその子たちは自分何者か、いつ帰ってこられるかさえわからないんだ」と怒鳴りつける一幕もあった。 活動活発化する頃には山本はすでに70歳超えていたが、それでも長野から東京まで約7時間の経路ものともせず各省国会議員訪ね歩き霞が関では「ひょうきん坊主」「満州帰り変人坊主」と呼ばれた。後の長岳寺住職・入亮純(はいる・りょうじゅん)は山本長岳寺過ごした経験持ち当時彼の生活の凄まじさを「いつ寝ているかわからないぐらい」と語っている。作家和田登1986年昭和61年)に取材のために山本のもとを訪れた際には、30分おきほどに電話鳴り続け、そのほとんどが孤児に関する電話だったという。

※この「日中友好手をつなぐ会」の解説は、「山本慈昭」の解説の一部です。
「日中友好手をつなぐ会」を含む「山本慈昭」の記事については、「山本慈昭」の概要を参照ください。

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