残留孤児たちの支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 09:29 UTC 版)
山本は来日する孤児たちの行き場を案じ、「きょうから、私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください」と呼びかけた。この言葉は決して額面だけのものではなく、実際に山本は自宅を「浮浪閣」と名付け、孤児たちや家族たちの宿泊用に開放していた。これは孤児たちや肉親たちの家庭の事情で、親子の名乗りが難しかったり、子供の永住帰国を親が拒んだ場合の配慮でもあった。一時は山本宅に身を寄せた孤児たちは、のべ50人におよんだ。 やがて帰郷や永住帰国で来日する孤児たちの増加につれ、彼らの日本での生活の支援のため、1985年(昭和60年)、「日中友好手をつなぐ会」により長岳寺のそばに支援施設「広拯会館(こうじょうかいかん)」が完成、日本での生活に必要な日本語や生活習慣を教える場となった。教師は残留孤児3世が務め、孤児たちの事情をよく知っているため、孤児たちにとっての精神的な拠り所にもなった。2004年時点では孤児2世たち2世帯7人が生活しており、同年時点までに約200世帯を送り出した。 同年には山本らは、孤児たちが帰国前に日本語を覚えるため、中国黒竜江省との協力の上、同省ジャムス市に日本語学校を開校。その資金のために山本は老齢年金をつぎ込み、借金のために自宅まで抵当に入れた。
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