日中国交正常化から改革開放とは? わかりやすく解説

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日中国交正常化から改革開放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)

日中関係史」の記事における「日中国交正常化から改革開放」の解説

公明党竹入義勝による訪中経て1972年9月周恩来総理当時)の招待で、田中角栄日本の総理大臣として初め中国訪問し歴史的な日中首脳会談実現した両首脳は数日協議末日中共同声明を発表した。これを以って中国」との「不正常な状態」が終結日中友好のために日本対す戦争賠償請求放棄され、「一つの中国」を十分理解尊重日華条約同時に無効となった日中国交正常化後、両国声明の中で示され日中条約締結向けて動き出すことになるが、反ソ連を想定した「反覇権条項」を巡って交渉難航、また1976年毛沢東周恩来相次いで死去し華国鋒への権力引き継ぎ文革推進した「四人組」逮捕中国内政揺れていた。しかし、福田赳夫内閣時に日中平和友好条約結ばれ1978年10月中国鄧小平副総理当時)が批准書携えて来日して中国指導者では史上初め昭和天皇会見した1980年中国の首相として初め国賓として華国鋒主席訪日した華国鋒失脚鄧小平実権掌握すると、中国現代化するための「四つの基本原則」を打ち出して改革開放路線への「大転換」を行う。日本政府はこれを高く評価し政府開発援助名目中国大規模な円借款行って中国経済大きく貢献した。特に胡耀邦総書記中曽根康弘首相個人的に親睦深め円高沿海部の経済特区指定重なって日本対中直接投資本格化し、1980年代日中両国相互補完的な「蜜月期」を迎えるが、その一方で歴史教科書記述を巡る問題靖国神社公式参拝の問題沸き起こる台湾との関連では、光華寮訴訟尖閣諸島問題起きる。

※この「日中国交正常化から改革開放」の解説は、「日中関係史」の解説の一部です。
「日中国交正常化から改革開放」を含む「日中関係史」の記事については、「日中関係史」の概要を参照ください。

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