日中戦争から日米戦争への移行
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「日中関係史」の記事における「日中戦争から日米戦争への移行」の解説
1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発するもののいったん停戦協定が結ばれたが、それでも廊坊事件、広安門事件、通州事件などの中国の挑発行為は幾度も起きた。抗日思想を背景とした中国軍側による好戦的な戦闘活動が起き、日本政府は当初華北での限定作戦を意図して戦闘の不拡大方針を取るが、8月9日に上海で大山中尉殺害事件が発生し、13日には中国軍の攻撃によって第二次上海事変が勃発。これを口実とした日本軍部の対支一撃論派の圧力と中国空軍の攻勢によって、日本政府は不拡大方針を第2次上海事変以降に覆されることとなった。日本軍は、ナチスドイツのファルケンハウゼンによる戦略に苦戦しながらも、中国軍が周到に用意していたチャイニーズヒンデンブルクラインを突破し、国民政府の首都が置かれていた南京を制圧することに成功した。当時の日本の大衆の多くは長引く不況と南京暴動や通州事件など、積もり積もった中国での抗日事件や反日運動に対する怒りから支那事変(当時の呼称)を支持しており、日本軍の攻撃は腐った支那人に対する正義の戦いだ、と捉えていた(支那軍膺懲)。翌1938年、首都南京陥落後も徹底抗戦を主張する蔣介石に対し近衛文麿は、日本政府が提示する講和条件を受け入れれば停戦の即時受け入れとこれまで日本が結んできた不平等条約を無効化することを約束、一方で否定すれば中国大陸での交渉対象(蔣政権を正式な交渉相手として認めない)から外すことを言明した。だが、首都南京を陥落させれば蔣介石は屈するとの日本の意図は打ち砕かされ、その後も蔣介石は徹底抗戦を主張した。これを受けて近衛文麿は「国民政府を対手とせず」との声明を発表し対話の選択肢を放棄した。続いて国家総動員法を成立させ大日本帝国・満州・支那による東亜新秩序を主張した。 国民政府は長江を遡って漢口から重慶へと政府機能を移転して抗日を続けた。漢口から先の奥地へはまともな道路が存在せず日本陸軍はそれ以上の追撃は困難と判断し、広州へ向けてさらに南下する。一方で、国民政府和平派の代表格である汪兆銘を首班とする南京国民党政府(汪兆銘政権)が樹立されると日本は、これを中国の政権として承認することで事変の終結を目指した。 一方で、日中間の戦争をなんとか治めようと、近衛文麿首相や皇族の東久邇宮稔彦王が、蔣介石と親密な関係にあった頭山満に度々働きかけ、和平交渉を試みようとしたが、その時ゝの要人(湯浅倉平や木戸幸一内大臣、東條英機首相)の反対によって実現に至らなかった。 また、近衛内閣はナチス・ドイツやイタリア王国と共に三国防共協定・三国同盟を結び、さらに大政翼賛会の結成で既成政党を無効とした。 こうした情勢の中、日本の中国進出を警戒する米国などの国は援蔣ルートを用意して蔣介石を支援した。アジア進出に出遅れた米国は門戸開放政策からも分かるようにアジア・太平洋へ介入する機会をうかがっていた。米国は日露戦争後、満州鉄道の経営を通じ中国大陸に進出しようと試みたが、失敗。第一次世界大戦で日本がアジア・太平洋地域で権益を拡大すると、これに反感をもった米国は石井・ランシング協定を結び、日本の満洲、蒙古での特殊権益を認める代わりにそれ以上の権益拡大を封じようとした。 その後、日本による満州事変・支那事変を端に発した大陸進出(勢力拡大)に対して欧米は深い脅威を覚え、いずれ日本が石油などの天然資源を求めて米領フィリピンなど、欧米が東南アジアに持つ利権を脅かす存在となるのではないかと懸念した(「南進論」)。また同時に日本の勢力拡大が独立運動が高まってきていたインドをはじめとする植民地に影響を及ぼすことに対しても警戒した。1941年に日本はソ連と不可侵条約を結んだ後フランス政府(ヴィシー・フランス)との合意に基づいて仏印進駐を行い、本格的に南進を実行していく。そこで米国は日本に対して経済制裁を課し、英連邦やオランダとも歩調をあわせた。御前会議を経て、近衛内閣は日米交渉をまとめられず総辞職した。 東條内閣は米国が提示したハル・ノートを事実上の最後通牒と判断し拒否、マレー作戦・真珠湾攻撃を行い宣戦の詔書を発表し、米英との開戦に踏み切った。 国民学校における「皇民化」教育が始まるのもこの頃である。日本海軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)の戦況は一向に好転しなかったが、大東亜会議において大東亜宣言を採択、大東亜共栄圏の構築を世界に示した。兵力を補うために学徒出陣も始まり、サイパン島の陥落でB-29による日本本土空襲が始まると、東條内閣はこの責任を取って総辞職、都市部の学童らは集団で疎開を強いられることになった。 こうして日本は中国のみならず米国・英連邦・オランダを敵とせざるを得なくなった。これを契機に蔣介石は共産党排撃の動きを強めたため、第二次国共合作は実質的に崩壊していった。共産党は国民党と交戦しつつ国土の大部分を占める農村部で反日運動を広め、八路軍を組織して抗日ゲリラ戦を同時に展開した。こうして中国戦線も長期化することになり、戦局は泥沼と化していった。 第二次世界大戦の戦後処理問題は、米英中ソの連合国間でカイロ宣言・ヤルタ協定・ポツダム宣言を通して大枠合意がなされていた。枢軸国の日本は日本への原子爆弾投下とソ連の参戦を受けてポツダム宣言を受諾、降伏文書に署名した。戦後、多くの日本人が抑留され、国民政府軍、共産党軍双方に徴用された。満州では国民政府軍に協力した日本人が虐殺される通化事件のような事件が起きたり、東北民主連軍航空学校を設立し、中国共産党軍航空隊の設立に寄与した。
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